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2015年2月7日土曜日

充実した脱力感

通常脱力運転ようりです。

前回から引き続き、脱力を深めています。

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自分の肉体を「搗く」ことがこれほど武術の可能性を広げてくれるのか。

ここ一ヶ月の衝撃は「搗く」ことの可能性を感じた月日だった。

「搗く」ことに最も近いのは、システマの打撃訓練(5:20〜)だ。
この動画では、二人一組でお互いの打撃を自分の肉体で吸収している。

しかし、二人でなく一人でもこの訓練は成立する。自分で自分を搗くのだ。
自分の肉体のあらゆる箇所を搗くことがようりの中でホットである。

先日、身体班の山崎に「搗き」を教えたとき、ある閃きがあった。
「山崎にとって最もリラックスが重要な箇所はどこか」

山崎曰く、Lockダンスで重要なポイントは、「筋肉を大きく見せること」だ。
そのためには、筋肉の弛緩と緊張の振れ幅を大きくすることが大事だという。普段は筋肉を弛緩させてカットをなくす。その状態から一瞬の緊張を起こすことで筋肉の隆起が光るのだ。

そんな山崎がリラックスをしたい箇所はどこか?

僕自身が自分を搗くポイントは、体幹を重点的に、だった。格闘の際に相手が打撃してくる箇所は体幹から頭であるからだ。

しかし、Lockダンスは違う。体幹よりも腕の筋肉を見せることが多い。だから、山崎に「搗き」を施すなら、腕を重点的にした方がいい。これが僕の結論であった。

腕を伸ばしてもらい、上から下にかけて「搗き」落とす。

そうして、彼に「搗き」を施してから自分の肉体の末端に試してみる。肩、二の腕、肘、手首、太腿、etc…。
効果は劇的であった。

特に大きな発見があったのは、腕だ。今までとは段違いの柔らかさを獲得するに至った。
表現するならば、「搗きから搗くへ」といったところだろうか。

肘を上から下へ「搗く」。すると、その腕は鞭的な運動をして垂れ下がる。それは、以前に師範が見せてくれた下段払いを彷彿とさせた。
「筋肉で動かすよりも、脱力して落とした方が明らかにスピードが増している」と驚いた。

前回でも記述した「二重振り子」の体現だった。関節が一つであれば一つの振り子、二つであれば二つの振り子。腕は肩・肘で二重振り子で出来ている。手首も加えれば三重だ。
二重振り子以上であれば、関節部分の筋肉を収縮させるよりも関節を脱力して動かした方が、遥かに高い速度が出力される。

「搗かれる」ことで起こる腕の鞭的運動で搗くという応用がここで出来た。

突きでも蹴りでも鞭的運動を実現させる。「搗き」はその動きを再現することにも有用だったのだ。
そうやって、腕の鞭的運動をするために、自分の意識のinputも変化した。

今までは、「前腕を重く感じる」というinputだったのだが、鞭になるには「二の腕を重く感じる」ということが大事なのだ。そうすることで肘がよく曲がり、鞭のような抱え込みが発生する。

後は、落下させるだけの運動の方向を体幹のうねりや運足によって変化させるだけで「脱力した重い搗き」を使えるようになる。

2015年1月4日日曜日

身体作りは餅作りのごとく/大きな脳に同期する

年が明けた。餅が美味しい季節。ところで餅はどうやって作るのか。

一般的に、①蒸す②捏ねる③搗く の三工程となっている。

「餅つき」の単語が有名であるためか②の発想が抜けている人が見受けられるが、捏ねないでいきなり搗くことはできない。臼に広げた餅米を杵頭でもにもに潰さずして、ぺったんぺったん搗くカタルシスは得られない。

身体も同じである。
最近の僕のホットトピックは身体を柔らかくすることだ。ここでいう「柔らかさ」とはストレッチで得られる「関節の稼動域の拡大」とは意を異にする。僕は餅のように、霜降り牛のように肉質をモチモチ/プルプルにすることを目的としている。

まず自分の身体を柔らかくしたいと思い込んだなら、徹底して脱力を心がけなければならない。いかなるときも僧帽筋を力まず、肩が落ちてなで肩にならねばならない。あと100gでも力を抜いたなら膝が抜けて床に崩れ落ちてしまうくらい限界の脱力を目指さねばならない。

お餅でいうなら①蒸す の段階である。甘味料・合成着色料・力み不使用で身体を運営できるようにならなければ、捏ねようが搗こうが身体は固さをリバウンドしてしまうであろう。

そのためには骨の構造に則った身体の積み上げをしなければいけない。それが立ち方である。太極拳には站椿という立ち方があり、これを体現できれば滅多なことがない限り崩れることはない。正しい立ち方をすれば、三途の川の石のように余計な支えなく立つことができる。つまり、姿勢を保持する筋肉の必要量は最低限で済む。

①の工程に満足できれば②捏ねる に移る。
肉や筋を揉み込むことになる。そのためには別に普通のマッサージを使ってもいいけれど、僕は武医同術に拘りたいので分筋法を用いる。武術中では相手の筋を裁つ技術なのだが、医術に使えば筋に溜まった瘀血淤血(おけつ)をひり出し、骨に癒着した筋を剥がすことができる。一日に二回も施術すれば肉質が筋肉なのか脂肪なのか判然できなくほどモチモチ/プルプルに近づいていく。つまり、ハードの面から脱力に近づいていく。

世界に指圧を広めた実績を持つ浪越徳二郎はモハメド・アリに指圧を施した際、「マリリンモンローよりも肉が柔らかい」と驚きの証言を残している。しなやかに脱力した強打を放つ肉体とは得てしてそういうものなのではないか。

実際、今まで強ばりがちだった肘周りが柔らかになったことで打撃力が向上した実感がある。スポーツ科学で推奨される「二重振り子」では、筋肉の収縮スピードより、関節が自由に振り子的に動いたときの速さが上回るのだ。ダルビッシュの投球だって力づくではなく振り子の脱力を活かすことであのスピードに達しているのだ。

②では打撃力も重要だが、その他の効用も大きい。
一つは免疫だ。淤血が滞らず流れるようになることで血行が巡り代謝が促進される。ひいては体温が上がって免疫作用が増大する。武術は「生き延びる」術であるため病気をも克服できる術がある。これもその一環であろう。

そして、最も大事であるのは衝撃の分散による防御の向上である。
石は衝撃に脆いがゴムは砕けない。太極拳の達人の身体を殴るとまるで生ゴムのように衝撃を吸収されてしまう手応えだ。硬い一部分で打撃を受け止めれば衝撃がそこに集中してしまうが、柔らかければ全身のフレームで衝撃を拡散することができるのだ。
しかし、①と②によって身体がハード的に柔かくなったからといって対人でそれが使えるかは別の話である。相手が拳を振りかぶったときに身体が緊張してしまってせっかく養った柔らかさが台無しになってしまうことはよくある。だから③搗く が必要なのだ。

「攻撃される」という恐怖を自分の中で大きくしすぎないことが肝心である。そのために攻撃を「ありのまま」味わうことで慣れる。そのために最近は搗いてもらうことが多い。最初は弱く。次第に強く。

なるべく目は瞑る。相手のパンチが皮膚に触れた瞬間に力の大きさや方向を身体が察知して適度な柔軟さを設定してくれる。弱いパンチであれば接触箇所が少し窪む程度。非常に強いパンチであれば身体全体がうねる。

そうやって視覚のない状態でずっとパンチを受けていると、ときおり自分が餅になった感じを覚える。どんどんと液状に柔らかくなっていく。そしてふいに不思議な体験に入る。

「相手が搗くから自分は受けるのか、自分が受けるから相手が搗いてくるのか」
二つの境界が曖昧になってついには交わる。これは搗かれるときだけではない。

この訓練を行うと、次第に相手の攻撃に身体が自然と反応するようになるのだ。相手が攻撃のモーションに入る寸前に相手が攻撃してくる箇所に熱を感じるのだ。その部分を熱の強さに応じて柔らかくするとほとんどの場合、無力化できることに気がついた。

相手が攻撃するからそこに熱が生じるのか、熱を感じたところに相手が攻撃するのか。

たびたび相手の行動を操れるようになった。それは以前に書いたことに共通する。
万全の構えよりも、どこかに隙を見せることで相手を誘導することができるのだ。這いでいうと、顔を前に出すということがこれに当たる。遠くに見える鳩尾や金的を打つより、近くにある顔に手を出してしまうという相手の心理を利用するのだ」

このことを前は意識的に用いていたが、最近は「自分の身体を開いて熱を感じたところに向けて閉じる」という系で使えるようになった。自分がフッと開いたところにドンピシャで相手が入ってくるのだ。それも相手が来るから開いたのか(略)のような境地である。完全に系に入っている。


系といえば、最近は相手との系に自在に入れるようになってきた。禅的な悟りを体感したからだろうか。
僕の悟りは「携帯電話ネットワーク脳」に近いものがある。

まず「私」という意識は確固として存在するものではないということが前提だ。意識とはシナプス間でやりとりされる化学反応の連鎖とその構成である。あるシナプス一つを取り上げて「これが私」と自分の根拠を求めることはできない。あくまで自我とは化学反応の連続性なのだ。酸素の供給が止まれば「私」も停止する。そのまま5分も経てば「私」は簡単に破損して戻ることはない。

これを携帯電話に例える。例えば、人類みんなが携帯電話を持つとしよう。70台の携帯だ。そしてほとんど休むことなく、知り合いの友達同士で電話をかけ合うとする。友達同士といっても交友関係を舐めてはいけない。六次の隔たりの仮説からすれば、友達を六人経由することで世界中の誰とでも繫がることができるからだ。脳の神経細胞は千数百億個あるとはいえ、携帯=シナプスと置き換えれば、これで小さな脳ができたことになる。信号の総体が我々の意識というわけだ。

しかし、このネットワークに意識があると誰が認識できるのだろうか? 我々の脳に意識があると確認できるのは意識を出力する手足があるからである。もの言わぬ意識は意識だと認知されない。

我々の意識というものが「不思議」なものだと理解いただけたであろうか。シナプス一つに意識はない。信号の総体的構成でやっと意識となる。まるで言葉のようだ。モノは存在するのに、そのモノ同士を繋ぐ言葉の何と不確かで曖昧なことか。

禅を組んでいるときに、僕はこの悟りを体感した。そして、稽古に臨むときに一つの仮説を試した。
「携帯電話でさえ意識になるのなら、自分の周囲全体も化学反応だ。脳になる」

自分と相手、周囲を一つの総体だと感じて、それによって構成される「大きな脳」の意志に身を委ねると、自分が何をすべきかが雰囲気でわかり、それを満たすために身体が勝手に動くようになってきた。相手が攻撃するから自分が動くのではない。ただ場の調和に則して身体が柔軟に動く。

系とは「大きな脳」なのではないか。そして内部観測とは「大きな脳」の中からその意識を記述することに他ならないのではないか。諏訪研で研究することは深い。

2014年11月11日火曜日

「開き」と「閉じ」。そして、爆発的な何か

「うーん、人間って脆すぎでしょ」

最近の稽古で生まれた所感である。こんなにも弱点があるのかと戦慄した。


関節は265箇所ある。ちょっと角度をかえて曲げればズレるし、関節の継ぎ目を打たれれば外れてしまう。

ツボは600以上。歩けばツボに当たる。めっちゃ痛いし、迷走神経を狂わせて行動不能にさせるものもある。

分筋法(筋を掴むことで痛めたり断裂させてしまう技法)を用いれば表面に見えるなら、どの筋肉や腱、靭帯だって攻められる。ちなみに筋肉の数は600以上である。

人間が弱点だらけで不安になる……。スーパーサイヤ人にでもならない限り、この弱点はそのままだ。こう考えると、関節もツボも筋肉もない液体人間のT-1000が弱点なくて無敵かもしれない。
あ、やっぱり嘘。液体窒素で凍らされるし、溶鉱炉でドロドロにされてた。それでも人間よりは弱点ないからいいか。万物は流転して形あるものは姿を変える。仕方あるまい。


……picking a weakness……

さて、諸行無常は置いておいて。

人間は弱点だらけである。

他流破りの記事(どうせ「小さな世界」しか見せられるものはない)を書いて、すぐに他流破りを教えてもらうことになり(といってもこれは偶然とはいえない。僕の流派は他流破りのコンセプトを内包しているから、学ぶうちに当然、系統立って教えてもらう機会に行き当たるはず)、そこでよく実感した。

僕の流派独自の返し技を具体的に口に出してしまうと秘伝のシステムに障ってしまう。だから、有名なものをあげることにする。
ブラジリアン柔術(グレーシー系)でいうと、タックルへの返しがある。この流派が得意とした技術が背中を見せてのタックルだ。前時代において、この流派が総合格闘技で最強を誇った。ボクシングも空手も柔道もキックボクシングも全て倒した。

なぜ、ブラジリアン柔術は並みいる流派のことごとくを試合で倒せたのだろうか。僕の「流派相対主義(構造主義)」の主張と違って、どの流派よりも優れていたといえるのか?

答えをいうと、ルールを有効活用したから勝てたのだ。異なる流派が戦ったといっても、別にルール無用の戦いだったわけではない。選手の安全を守らなければ興行として成り立たない(それにルール無用の戦いははっきり言って見苦しい)。

目潰し・金的・頭突きなど弱点への攻撃を禁止にしていたのだ。もちろん、脊柱への打撃も禁止。文字通り、ルールの守りを背負うことによって、安全に攻撃を進めることができたのだ。

そういったルールに最も適応したのがブラジリアン柔術であったため、戦いを有利に進めることができたのだ。つまり、最強ではなく最適の流派だった。

だが、試合でのタックルという戦術の有効性に恃んで実戦で使ってしまう選手だっていた。そういった人たちは喧嘩に負けることになった。

背中ががら空きであるため、脊髄に肘打ちを下ろされると後遺症が残るほどのダメージを受けたのだ。その他にも、一人にタックルしているうちにその仲間に囲まれて袋叩きにされてしまう者もいた。

流派の構造上の盲点・弱点とはこういうことである。換言すれば、徹底的に卑怯になることだ。相手が有利なルールを無視して自分の土俵に引き込むのだ。

ここで冒頭の話に繫がる。相手が人間である限り、その身体は千を越える弱点を秘めている。その弱点だけを観て、戦うのが「戦上手」の第一歩なのではないかと仮説を立てる。

格闘技でも武道でも武術でも、「強くなる」ための練習や稽古がある。だが、その練習や稽古は致命的なものを避ける。安全に着実に強くなろうというのに、練習で死んでしまうのが本末転倒であるからだ。したがって、どうしても急所といった弱点を保護しようとする共通見解を持たざるを得ない。保護は練習の中での幻想だということを忘れるのが堕落の始まりなのである。

皮肉なことに強くなろうとすると、どこかしらで弱くなることを求められるのだ。

そこから、なるべく決死の覚悟を持って稽古に望まないといけないな、と気付かされることとなった。練習は練習、実戦は実戦であるという認識を持ちたい。そして、その安全な練習で実戦で生き抜く術を磨くとするなら、せめて意識だけは実戦を保つのが筋というものだと思う。

人間の弱点から目を背けることなく、流派ごとに保護されて盲点となったところを効率的に叩く術を瞬時に引き出すことが僕の目指すところであると再定義した。

……opening……

「先に開展を求め、のちに緊湊に到る」

中国武術に伝わる要訣である。最初は伸びやかに大きく、そのあとに小さくまとめるという意味だ。(湊とは「みなと」。海に立った、多くの船が白波を残して港に戻ってくる。この様子からまとめるという意味になったと思われる)

僕の武術の視点でいうなら、最初に身体をできうる限り大きくバラバラに動かせるようにして、あとに小さく協調させることに当たる。

こういうと小さくできる人=玄人だと思われるが、玄人ぶりたいのか開展もままならないのに最初から小さくしたせいで全く威力を持たないへっぽこ武道オタクを多くみてきた。だからなのか、僕は開展を限界まで求めようとする傾向にある。

「若いうちにもっと明勁を求めればよかった」

とある老境の達人がこう言うのを聞いたこともある。明勁とは、傍目から見てわかるくらい大きな動きで紡ぐ力のことだ。

達人はその逆の暗勁、つまり外見からまったく分からないほど微細な動作でいきなり大きな力を出せることで有名な方だった。僕は凄い威力だと思っていたのだが、彼にとってはまだ十分ではなかったらしい。その言葉も僕が開展を求める大きな要因である。

身体をバラバラにするには、なるべく大きく伸びやかに解放して動かなければならない。そのためのメソッドは僕の流派にあるが、基本のものをそのまま使っただけではまだ足りない。宗家が膨大な体系の中からエッセンスだけを抜き出したと語られたからだ。基本を応用することが上達の鍵である。
https://www.youtube.com/watch?v=IWbyXMQ9ZPk#t=17
少し変化させて僕は劈掛掌の動きをこれまで取り入れてきた。

全身の力を抜きさり、腰を支点にして上体を上下左右に振り両腕を風車のように振り回す」

劈掛掌は僕が知りうる限り、最も大きな動きをする流派である。その中でも、胸を開く・閉じる動作を最近は重視してきた。それなりに功がなったのか、宗家や師範からお褒めの言葉をいただいた。

「もっと、開きたい」

そう思って自分の本棚で昔の本を探っていたところ、再解釈があった。
これは、前衛的な空手である「新体道」の稽古の一つ、連続反り飛びである。

以前にこの新体道の本を読んだときは、「鍛錬が前衛的、抽象的すぎて意味がまったくわからない」という感想を持ったことを覚えている。そのときから僕も少しは成長したのだろうか。なんとなく用法や効果が分かるようになってきた。

新体道の鍛錬は内に籠もらずに外に大きく解放することを重視するのだろう。この連続反り飛びが良い例だ。これほど「開く」例は正直いって、他の流派には見当たらない。劈掛掌でさえもだ。これからの開展は新体道を取り入れて鍛錬しようと思う。「あらん限り開く」意識を持つ。閉じるときもリミッターを外すくらいの勢いで閉じる。

しかし、思いっきり飛び跳ねるのはいささか宗教チックだなあ……。と思ったが、ハタと気付いた。新体道は神域に達するための「道」というコンセプトだった。ならば、その行が宗教になるのは仕方ない。

古来から、呼と吸、解放と呼び寄せ、外界と内界は魔術や宗教で重要とされてきた。呼吸は、外と自分の中を繋げる役目を持ち、神を内側に取り込む。そのイメージは洋の東西を問わない普遍的なものだ。「開き」と「閉じ」を思い切りやるなら、そのイメージは付いて回るのだ。仕方ない。

武術は魔術や宗教と構造が似ているせいか、リンクしやすいのだ。八卦掌の走圏だって、元はスーフィズムだもの。ぐるぐる回ってトランス状態、つまり神が入ったと見なされる状態が武術的なパフォーマンスを最大に発揮することを誰かが見つけて取り入れたのだろう。

歩きや呼吸は無意識に繫がっているからなあ……。盆踊りだって、くるくる回ることでトランス状態になって神を降ろすのが目的だったりする。伝統のお祭りの元を辿れば、必ず宗教にたどり着くのはそういうわけである。

……now exploding……

最後に「爆発」の意識について語ることにする。その意識を持つきっかけはかずくんとの語りにあった。

「最近、脱力の意識が大事だなと思ってるんですよ。ロックダンスでヒットという技で意識するようになったんです」

そう言うやいなや、彼の腕の三頭筋が弾けるように膨らんだ。ポップコーンを想起するほどの弾け具合だ。

「力を入れることは出来るんですが、力を抜く意識も大事だと分かったんですよね。そっちの方が筋肉の弾きにメリハリが効くことで大きく見えるじゃないですか」

そこで、僕の脳裏に爆発のイメージが浮かんだ。例えば腕の力こぶを作るときに、無意識のうちに力こぶの少し上に意識を集中するはずだし、そこに集中した方が力こぶを作りやすい。それが、「力を入れている」ということだ。逆に力を抜くときには、力を抜くところを意識せずに遠くに意識を飛ばすといい。僕はいつもそうしている。

なら、力みからの急激な脱力への切り替えはどうするのか。それに当たる、意識の集中→拡散を成立させるイメージが「爆発」だったのだ。

このことをかずくんに伝えたが、僕の中で整理された「爆発」のイメージはある仮説の元に組み込まれた。その仮説とは、「脱力」と「伸筋」の橋渡しに爆発を使えばいいのではないかというものである。

「脱力」とはいつも僕が行っている、「全身をバラバラ」の元となる技法である。一方で、「伸筋」とは身体の伸筋を繋げて一本の槍として使う技法である。基本的に、僕の流派では脱力を行い、伸筋を嫌う傾向にある。まずは脱力を求められるからだ。その後なら伸筋を簡単に使えるのだが、逆は難しい。それは、前回の宮本武蔵の引用の理由からだ。

たまに伸筋も使うが、基本的に圧倒的に脱力の方が使い勝手がいい。それでも、何かしらの状況で伸筋が脱力より優位になることだって考えられる(今のところ思いつかないが)。

僕の悩みとして、脱力状態から伸筋に移行するのは簡単なのにその逆を瞬時に行えないというものがあった。しかし、この「爆発」はその橋渡しをしてくれるイメージなのではないかとかずくんとの対話で気づいたのである。

全身の伸筋を繋いで一本の槍にするのだが、そのとき爆発のイメージを使って一瞬だけ伸筋を繋げる。そして、そのあとは振り戻しによって瞬時に脱力状態に戻ることができるという仮説だ。

この仮説を使ったところ、脱力状態から突然、伸筋を一瞬だけ使うことができるようになった。後は、伸筋が有効な状態を探すだけである。

2014年11月10日月曜日

11月8日(土)けが

レッスン中に、けがをした。
ジュテ・アントルラッセ(ジャンプ)の着地の際、右足のくるぶしの脇が、「バチッ」と音をたてた。

またか…。

去年の7月にも同じけがをした。
あのときも同じところから音がしたけれど、「パンッ」という音だった。
骨挫傷で済んだけれど、本番5日前だったから致命的だった。
なんとか一作品踊ったけれど…。
そのせいか治りが遅くて、リハビリが完全に終わったのは、今年の1月だったなあ。

音がした瞬間、一年前のことがものすごいスピードで思い出された。


レントゲンを撮ったところ、幸い骨には異常はなかった。
湿布・サポーター・松葉杖。

人生で3度目の松葉杖とのご対面。
松葉杖って、とんでもなく疲れるんだよなあ。

松葉杖で疲れないような身体の使い方ってないかな…。
今日明日は安静にしないといけないから、月曜日、学校に行きながら模索してみよう。


家では、自分の部屋が二階にあるため、いちいち階段を松葉杖で上り下りするのが面倒だ。
だから、階段を上るときは、まず右膝を段にのせ、その段に左足をのせて、そこからグッと左脚の脚力だけで立ちあがる。そしてまた右膝を、足を置いていたところおり2段上の段にのせる。
これは、中学3年生のときにはじめて松葉杖生活をした際に思いついた階段の登り方である。
右足をつかないように一段ずつ上る、というのが辛くて、どうにかして一段とばしのリズムを作れないかな、と考えていたときのことだった。
これならわりと速く上ることができる。
しかし、左足の前腿への負荷が大きく、また右膝も痛い。

いつもたたたたっとなんの苦も無く上っている14段が、今はまるでボルダリングのよう。

身体の部位の片側だけで動くというのは、どうしても元気なもう片方を痛めつけることにつながってしまう。
けがから復帰したときに、左足になんも問題もなくバレエを踊りたいのに、これでは左脚をけがしそう。

どうにかうまく対処する方法を考えないとなあ。

2014.11.10 Koseki

2014年11月9日日曜日

バウンディングについて。

きょうは部活の同期の走り高跳びの選手が、十種競技に出場していたのでその応援をしていた。ひまな時間にいろいろと身体を動かしていた。最近自分の中でブームであるバウンディング(立ち五段跳びの動き)を行った。もちろん前回かいた通り「ダブルアーム」での練習である。まず前回やったより、いろいろいい気がした。同期の三段跳びの選手も試合会場に来ていたので、その動きをみてもらった。すると、「いいね。腕の使い方も悪くないよ。あとはもっと緩急つけられればいいね」と評価をいただいた。いろいろ議論をしていると「肩甲骨を後ろに大きく引けると、自然と同じ側の骨盤が前に出てくるらしいよ」という身体の仕組みを教えてもらえた。
緩急とは、接地の瞬間は腕はMAXスピードになり瞬発的に力をいれるが、そのあと空中での局面では腕の(上体の)力は抜くということであろう。さらに別の選手にみてもらったところ、「いいじゃん。でも、腕は必ずしもたたむ必要はないよ。接地の瞬間だけ勢いつけられれば。」というお言葉をいただいた。 
これらの評価について、第一声が褒め言葉であったことはかなり嬉しいことだ。やはり身体をコントロールする能力が向上しているのだろう。さらに上体の力みに関して言われそうだなというのもなんとなくわかっていた。これに関しては「肩甲骨まわりの動的柔軟性を向上させる」というアプローチが不可欠であると思う。

今日の練習中にもひとから評価をもらう前に自分でいろいろ試行錯誤して向上したところもある。(自分の動きを動画にとりみることにより。)それは脚のさばき方である。最初はかかとをややお尻にひきつけながら行っていたが、それだと腿付け根と膝の成す直線が水平まであがってこない。つまり膝の上がり具合が微妙なのである。これは跳躍距離をかせぐのにロスなので、もう少し、ひきつけずに膝を高くあげることを意識すると、滞空時間が長くなった。 また、右脚を前に出しているとき(左足が接地している瞬間)はダブルアームながらやや左肩が前に出ていたが(右肩より)、逆に左脚を前に出しているときは肩のラインに前後はないことに気付いた。これに関しては、前者の方がいいなと思った。なぜならそれこそ「ナンバ」の動きであり、重心を前にすすめていくのに理にかなっているからである。
よって、次バウンディングの練習をする際は、振り出した脚の反対側の肩を前に出すということを実践しようと思う。
この「接地している脚の側の肩を前に出す」動きは、上述の「振り出している脚の側の肩甲骨を後ろに引く」という動作とほぼ同値であるべきなのではないかと思い至った。

なんにせよ、これから肩甲骨周りの動的柔軟性を向上させていく努力が必要なのは間違いなさそうだ。
以上。

「脱力」して発揮する力


学校でダンスのリズムトレーニングを行っていた時のことだ。以前、身体班の仲間から、「脱力」する話を聞いた。力を発揮すると聞くと、筋に力を入れ、思いっきり動かすイメージがある。しかし、逆に「脱力の意識によって、力を発揮する」ということを彼は、目の前で見せてくれた。

 

彼は腕を体の前に出し、その腕を掴んで強く押すようにと私に言う。言われたとおりに押してみた。一回目は簡単に彼のバランスを崩し、後ろに押し切ることができた。しかし、二回目は違った。彼は、ブルブルっと体を振り腕を垂らしてだらんっとした姿勢を取ってから、そのまま腕を前に差し出す。私は押してみた。一回目と全然違う。押し切れないどころか、逆に私の体に圧力を感じる。重く、固い。しかし、体の姿勢は依然としてだらんっとした姿勢である。とても不思議だった。さらに彼は言う。「脱力するときに、膝の力も抜いて、上半身ごと下に落ちてみる」。

 

今日のダンスのリズムトレーニングはウエイトトレーニングを行った後に始めた。筋肉が張ってしまっているために、どうしても力の入ったフォームになってしまう。僧帽筋に力が入り、上半身が縮こまり、肩から腕にかけて筋肉が硬直している。そこで、一回リズムトレーニングをやめてみた。ふとジャンプをして、力を抜こうとしてみた。

ここで、彼の話を思い出した。ジャンプして空中でのリラックス感のまま、着地も膝を抜いて下に落ちてみよう。とても気持ちがよかった。上半身ごと下に落ちてそのまま上へ再びジャンプをするときも、力んでいる感じがしない。上がりながら、ふつふつと力がこみ上げている感じがする。とてもワクワクしてきた。この感覚は初めてだ。ジャンプってこんなに楽で気持ちがよかったけ?しかもフルレンジなのに。

 

リズムトレーニングを再開した。感覚が全く違う。なぜだろう。鏡を見ると、肩が16ビートを刻んでいる。明らかに力が抜けている。それによって、首の動きもなめらかで自然である。脱力は下半身にも至る。膝と骨盤がなめらかに連動している。リズムを取ろうとしなくても自然と刻んでくれる。リズムトレーニングのときは、膝はどう動いているか、上半身はどうか、骨盤はどうか、ということばかり考えている。しかし、その意識はない。それぞれの部位が互いにコミュニケーションを取り、リズムを打ち鳴らす。私はそれを聞いているような感覚だ。楽しい。それによっていろいろな音が聞こえてくる。ためしに技を織り交ぜてみる。今まで感じ取れなかったタイミングも見えてきた。このタイミングでこの技を出すことで来たっけ?とにかくいろいろな発見が多かった。

 

これらの発見をなぜ得ることができたのかは、まだわからない。しかし、上達していくにはこれらを解明させていく必要がある。これから練習を行ていくときの問題意識の一つとして、しばらくテーマに掲げてみようと思う。

2014年11月8日土曜日

どうせ「小さな世界」しか見せられるものはない

最近の気づきでもないけれど、僕の武術的理想について発散しようと思う。
その元となる武術観に多大な影響を与えた作品の話を最初にしようと思う。
中二病全開につき要注意。濃厚です。


……closing to ideal……

高一の夏。その作品に出会ったとき、瞬く間にその豊穣な世界観に魅了されて引きづり込まれていった。文庫本に換算すると、文章量だけで20冊に値する作品だ。読んでは寝て、寝ては読んで、一週間にも満たぬ期間で読破してしまったほど引き込まれた。

「Fate/stay night」というゲーム作品である。荒々しく筋をいえば、作者独自の魔術観の上で、魔術師や過去から呼び出された英雄たちが鎬を削りあうという内容だ。現在、二度目のテレビアニメ化が実現して放映されている。(それに焚き付けられて書きたくなった次第である)

語りたい魅力や哲学は様々あるが、今回は一つの光景に絞って言及しようと思う。

その光景が意識に刻まれて離れず、いつしか僕の武術にも反映されていた。それほど、当時の僕には鮮烈な光景だった。
緋い空の下に延々と荒野が続く。そこにまるで墓標のような寒々しさで無数の剣が連なる。

この光景は登場人物の一人の内側に広がる「心象世界」である。その人物は、剣を見ただけで内包される創造理念・基本骨子・構成材質・製作技術・憑依体験・蓄積年月の六つをほとんど完璧に読み取ることができる。そして、無意識の内にこの心象世界に連なる複製の一本に加える。

そういう特技を持っているおかげで、どんな伝説上の名剣も一目見さえできればコピーできるのだ。そして、戦闘の際には心象世界から数本を選んで魔術によって現実世界に顕現させる。

「ファンタジー世界なら、どんな名剣でも使えて最強じゃん。草薙の剣でも頑張って見て作れば?」

こういいたくなるところだが待ってほしい。あくまでも複製であるせいでオリジナルからワンランク落ちることと、強い剣を作っても本来の使い手ではないため性能の100%を引き出せるわけではないという二つの理由から簡単に最強にはなれない。千の90を持っていたところで、一つの100を持つ相手には一点突破されてしまうのだ。

だから、この人物は勝つために策を用いる。

例えば、ギリシャ神話のゴルゴンと戦うとしよう。伝説では視線を合わせるだけで人を石化させてしまう強力な怪物であるが、どうにかその正体を看破してしまえばこの人物にとって打ち破ることは難しくない。
鏡を持って近づくことで視線を受けないようにして、ペルセウスが使った首刈りの鎌であるハルペーを振りかざせばいいのだ。

つまり、①正体を看破する②正体に秘められた弱点を見抜く③弱点を突くための方策を用意する。

この三ステップを踏むことが策である。どんな英雄だろうと何かしらの弱点はある。それがゴルゴンほどあからさまに致命的なものでなくても、手をかえ品をかえて弱点だけを攻め続ければ勝つのは容易な作業となる。

……now adapting……

これでようやっと、僕の戦略の話に繫がる。賢明な方なら、おぼろげながら「世界」についての記述を思い出すのではないだろうか。

「世界」に遊ぶ。無限の側面に遊ぶ

如何に相手の流派の「世界」の真価を殺して、自分の「世界」を活かしその土俵に引き込まなければ勝てないのだ

この記述である。石化の視線を持つゴルゴンに対して、鏡を使うことが前者、弱点となるハルペーを心象世界から引き出すのが後者に当たる。

ここまで書いて、宗家が以前に零していた言葉を思い出したので引用する。

「あるとき、舞踊の先生に、君は本当に強いのかと聞かれたときに困ってしまった。なぜなら、自分が強いのかが分からなくなってしまっていた時期だったからだ。

相手の弱点を徹底的に攻めて勝つ方法を自分は確立したため、勝つことは容易になった。しかし、それが強いことに繫がるのだろうか。

何十年と武道を修業した人は強いだろう。だが、その人やその人が修めている武道の弱点を徹底的に突く方法を教えてしまえば、たとえ武道歴のないズブの素人でもその人を倒すことができる。

勝つことはできるが、それがイコール強いということなのか。そもそも強いとは何か。自分でも納得が言っていなかったため、自信を持って自分が強いと断言できなかった」

僕も全てを教授されているわけではないが、僕の流派では他流破りの方法が確立されている。その全てがオリジナルというわけではない。宗家自身が「うちの流派はパクリ流派」と公言されているように、その方法は他派が他派を破るために研究した方法も多分に含まれる。

「うちのコンセプトはジークンドーと似てる」

とも言っている。ジークンドーとはブルース・リーが創始した流派で、「型に嵌らず、使えそうなら色々な他派を取り込んで良い」というコンセプトを持っている。

同じように、僕の流派は様々な他派を取り入れて構成されている。

メタファーでいうなら、先ほどの心象世界の剣の一本一本が他派の流儀であり、技である。ナルトのカカシじゃあるまいしそんなに簡単にコピーできるものなのだろうか、そもそもコピーして戦うなんて戦法はよーりの勘違いじゃないのと疑問に思うかもしれない。その問いは僕の流派が持つ「世界」の入門が答えているように思う。つまり、「優れた身体」を作るための基本が指し示している。
「世界」に遊ぶ。無限の側面に遊ぶ

「脱力することでバラバラに分割して動かせる、また、自在に協調して動かすことのできる身体」

この身体は、骨や筋を柔軟にして寸断したのちに練り上げることで出来る(そのためのメソッドが多くある。ここでは割愛)。この身体を作るとどうなるのか。

この身体が実現すると、どんな技でも一定以上の水準で再現することができるのだ。
宮本武蔵『五輪の書』
リンクは僕が執筆したコラムである。引用する。

剛体から柔軟への変化は出来ない一方で、筋肉の締めを応用した柔軟から剛体への変化が可能であることも、柔らかさの可能性の一つである」
強ばって全体がコチコチだと固い技しか出すことができない。脱力した技を使うことができない。対して、柔らかであれば、脱力した技も固い技も自在に使い分けることができる。

再現するためのハードがある。ならば、再現するためにソフトとなる技の原理を見抜く眼力を用意したいところだ。見抜けばコピーも容易である。そして、「読み」が僕の流派では重視される。読みが全てと言われるほどだ。

現実に宗家は人の構えを見れば、修めている流派はもちろん、擁される原理や応用までも見抜いてしまう。技もそうだ。一度見たら、オリジナルの人よりも上手くこなしてしまうこともある。さらには、その構えと技を破る方法もどこからともなく引き出してしまう。だからこそ、弱点を見つけ出して攻め続けることができるのだろう。

元々がジャグラーであって映像でジャグリングを修めていたため、僕は真似をするのがまあまあ上手な部類であると思っている。独学で武術をしていた期間でも真似をしていた。しかし、宗家はもちろん師範の真似力には全く劣る。なぜだろう、とメタファーからフィードバックすると相手を真似る糸口が少し見えた。(フィードバックを得られるまで自分ごととして本気で捉えることがフィクションを娯楽で終わらせない鍵だと思っている)


①創造理念=技が生まれた背景
②基本骨子=技の原理
③構成材質=身体つきや仕草
④製作技術=どういった練習方法をするか
⑤憑依体験=どうやって応用するか
⑥蓄積年月=技がどれだけ古いものか

あくまでもメタファーに当てはめたものであるため実際はもっと多いかもしれないが、これが僕が立てる眼力の内容の仮説である。例えば、合気道の四方投げを例にとる。
https://www.youtube.com/watch?v=MhKN0I8gLu8

まず、足下を見るに、シュモク足になっている。
足をハの字に開いて拇指球に体重を載せる構えである。足先の方向を揃える剣道とかなり対比的である。これは発祥した状況が違うためその中で技術が洗練された結果である。剣道では一対一の稽古が多いため前後に動きやすい足先揃えとすり足が残った。

対して、⑥合気道は対多人数を想定した古流剣術の流れを組む。多人数で入り乱れるときには四面から来る敵に相対するために素早い方向転換が必須となる。撞木足はそれがしやすい。右の拇指球に体重をかければ左を自然と向くし、左は逆である。すなわち、剣道は竹刀での一対一稽古が主流となった江戸後期に発祥したのだと分かるし、①合気道は対多数が当たり前の戦場や喧嘩で培われたものだと分かる。

合気道の足を見るだけで多くのことを読み解くことができる。さらに、④稽古に乱取りがあるはずだと分かる(実際は流派による。富木流や西尾流、養心館といった実戦主義を唱えるところは当然採用している)。また、方向転換が容易ということから回転系の技を多用すると推測できる。つまり、その足から出される技の原理を類推できる。②だ。

足の他に身体つきや仕草などもある。本気でその流派をする人は自然と「優れた身体」になっていく(そうなっていない人の技は効果半減)。逆説すれば、身体つきと仕草からどんな流派なのかを見てとれる。合気道なら姿勢が正しく、重心が低く、滑るように移動する。呼吸が深く、目配りが広い。

合気道の特徴を知っていればその条件に当てはめることができるし、知らなくともいくつかは分かり、そこから類推して補完することができる。①〜⑥は連環しているからだ。

……now watching……

こうようにして眼力で読み取ったことは、他派破りにはもちろん、自分の複製技術の向上にも繫がるはずだ。①〜⑥をより詳細に読み取ることができれば、自分の技のチェックや意識に活きる。

長くなったが、一目で相手のスタイルを見取った上で環境に応じて弱点を突くような技術を自分の中から天衣無縫に、しかも高い練度で引き出すのが僕にとっての理想である。

そのために眼力、読みをどうすれば高めることができるのか……。やはり、メタ認知が必要なのかもしれない。写真や動画で高いレベルの他派を見てどんなことを感じるのかをメタ認知する。語ることで、これからの課題がはっきりした。


さて、「世界」と武術の繋がりについてまとめたい。

以前にも語ったがそれぞれの流派には「世界」がある。読みの技術はその「世界」を①〜⑥の観点から読み解くものだと言えるだろう。読み解いた上で、複製するなり、弱点攻めに利用するのだ。

先述の宗家の言葉ではないが、強さとは何かを尺度にして測るものだと思っている。それは絶対的なものでも普遍的なものでもない。大きさを測るには何かを比べることが必要だし、それを比べる物差しも様々あるからだ。だから、「強い」といったときにはその「世界」という物差しの中での到達点を指しているのではないか。そういったフレームの中で競争しあって洗練されて「強く」なるのだ。
そして、どんなフレームだろうと、フレーム同士を比べることはでない。フレームとは構造主義的に自己完結した完成した「世界」だからだ。文化と文化を、例えばキリスト教とイスラム教のどちらが素晴らしいかを比べることはできない。そして、武術も文化という構造なのである。身も蓋もなくいってしまえば、「武術は相対的だよね。どの流派もみんな違ってみんな素晴らしいよね」ということになる。

したがって、同じ流派内なら「強さ」で簡単に個人同士の優劣がつく。

その一方で、違う武術同士が戦うときには価値観の違う「強さ」をぶつけあうため、勝った方が「強い」と断言することはナンセンスだ。しかし、「強い」かはともかく、勝つための手段を講じることはできる。

他流と戦うときに勝利するポイントは何か。それは、フレームという構造がどうしても内包してしまう構造的弱点(盲点と言い換えてもいい)を突くことだと考える。日本家屋なら、屋根にのしかかるのではなく、支柱を折るようなものだ。強いところを攻めても持ちこたえられてしまうが、弱点を突けば自ずと崩壊する。
相手のフレームの弱点を徹底的に突き合うのが、流派同士の戦いなのである。そのときに必要なのは、自分のフレームの中だけの「強さ」ではない。自分のフレームを熟知してその弱点を隠しながら、相手の弱点を見破って、即座にそのための方策を創出するという「上手さ」が必要なのではないか。

ここに至って、僭越ながら僕は宗家のことばに答えを出すことができる。つまり、僕の流派で重視されるのは他流を破る「上手さ」であって、自流の中での「強さ」を目指さないのだ。僕が理想とするのは「最強」ではなく「戦上手」ということになる(勝手ながら、腹オチした)。

といっても、この「他流を破るための上手さを目指す」と主張した瞬間、そこにはメタな構造、「世界」が生まれるから、これも弱点を内包するに違いない。

それでも、相手の構造を見破り自分の中から剣に見立てた技を引き出して変化させるという構造しか僕にはない。もはや、この「小さな世界」しか僕に極められるものはない。

「小さな世界」を探検することで弱点を見つけつつ、ときおり、技を磨くことしかできることはない。

いや、欲を付言したい。

新たな説を作れば、それを否定する「他者」が必ず現れると現代哲学は発見した。僕はなるべく「他者」を探してそれすらも「世界」に取り入れたい。それが進化の鍵だから。

今日も僕の「世界」をひけらかしたところで、筆を置く。中二病で失礼。