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2014年11月11日火曜日

「開き」と「閉じ」。そして、爆発的な何か

「うーん、人間って脆すぎでしょ」

最近の稽古で生まれた所感である。こんなにも弱点があるのかと戦慄した。


関節は265箇所ある。ちょっと角度をかえて曲げればズレるし、関節の継ぎ目を打たれれば外れてしまう。

ツボは600以上。歩けばツボに当たる。めっちゃ痛いし、迷走神経を狂わせて行動不能にさせるものもある。

分筋法(筋を掴むことで痛めたり断裂させてしまう技法)を用いれば表面に見えるなら、どの筋肉や腱、靭帯だって攻められる。ちなみに筋肉の数は600以上である。

人間が弱点だらけで不安になる……。スーパーサイヤ人にでもならない限り、この弱点はそのままだ。こう考えると、関節もツボも筋肉もない液体人間のT-1000が弱点なくて無敵かもしれない。
あ、やっぱり嘘。液体窒素で凍らされるし、溶鉱炉でドロドロにされてた。それでも人間よりは弱点ないからいいか。万物は流転して形あるものは姿を変える。仕方あるまい。


……picking a weakness……

さて、諸行無常は置いておいて。

人間は弱点だらけである。

他流破りの記事(どうせ「小さな世界」しか見せられるものはない)を書いて、すぐに他流破りを教えてもらうことになり(といってもこれは偶然とはいえない。僕の流派は他流破りのコンセプトを内包しているから、学ぶうちに当然、系統立って教えてもらう機会に行き当たるはず)、そこでよく実感した。

僕の流派独自の返し技を具体的に口に出してしまうと秘伝のシステムに障ってしまう。だから、有名なものをあげることにする。
ブラジリアン柔術(グレーシー系)でいうと、タックルへの返しがある。この流派が得意とした技術が背中を見せてのタックルだ。前時代において、この流派が総合格闘技で最強を誇った。ボクシングも空手も柔道もキックボクシングも全て倒した。

なぜ、ブラジリアン柔術は並みいる流派のことごとくを試合で倒せたのだろうか。僕の「流派相対主義(構造主義)」の主張と違って、どの流派よりも優れていたといえるのか?

答えをいうと、ルールを有効活用したから勝てたのだ。異なる流派が戦ったといっても、別にルール無用の戦いだったわけではない。選手の安全を守らなければ興行として成り立たない(それにルール無用の戦いははっきり言って見苦しい)。

目潰し・金的・頭突きなど弱点への攻撃を禁止にしていたのだ。もちろん、脊柱への打撃も禁止。文字通り、ルールの守りを背負うことによって、安全に攻撃を進めることができたのだ。

そういったルールに最も適応したのがブラジリアン柔術であったため、戦いを有利に進めることができたのだ。つまり、最強ではなく最適の流派だった。

だが、試合でのタックルという戦術の有効性に恃んで実戦で使ってしまう選手だっていた。そういった人たちは喧嘩に負けることになった。

背中ががら空きであるため、脊髄に肘打ちを下ろされると後遺症が残るほどのダメージを受けたのだ。その他にも、一人にタックルしているうちにその仲間に囲まれて袋叩きにされてしまう者もいた。

流派の構造上の盲点・弱点とはこういうことである。換言すれば、徹底的に卑怯になることだ。相手が有利なルールを無視して自分の土俵に引き込むのだ。

ここで冒頭の話に繫がる。相手が人間である限り、その身体は千を越える弱点を秘めている。その弱点だけを観て、戦うのが「戦上手」の第一歩なのではないかと仮説を立てる。

格闘技でも武道でも武術でも、「強くなる」ための練習や稽古がある。だが、その練習や稽古は致命的なものを避ける。安全に着実に強くなろうというのに、練習で死んでしまうのが本末転倒であるからだ。したがって、どうしても急所といった弱点を保護しようとする共通見解を持たざるを得ない。保護は練習の中での幻想だということを忘れるのが堕落の始まりなのである。

皮肉なことに強くなろうとすると、どこかしらで弱くなることを求められるのだ。

そこから、なるべく決死の覚悟を持って稽古に望まないといけないな、と気付かされることとなった。練習は練習、実戦は実戦であるという認識を持ちたい。そして、その安全な練習で実戦で生き抜く術を磨くとするなら、せめて意識だけは実戦を保つのが筋というものだと思う。

人間の弱点から目を背けることなく、流派ごとに保護されて盲点となったところを効率的に叩く術を瞬時に引き出すことが僕の目指すところであると再定義した。

……opening……

「先に開展を求め、のちに緊湊に到る」

中国武術に伝わる要訣である。最初は伸びやかに大きく、そのあとに小さくまとめるという意味だ。(湊とは「みなと」。海に立った、多くの船が白波を残して港に戻ってくる。この様子からまとめるという意味になったと思われる)

僕の武術の視点でいうなら、最初に身体をできうる限り大きくバラバラに動かせるようにして、あとに小さく協調させることに当たる。

こういうと小さくできる人=玄人だと思われるが、玄人ぶりたいのか開展もままならないのに最初から小さくしたせいで全く威力を持たないへっぽこ武道オタクを多くみてきた。だからなのか、僕は開展を限界まで求めようとする傾向にある。

「若いうちにもっと明勁を求めればよかった」

とある老境の達人がこう言うのを聞いたこともある。明勁とは、傍目から見てわかるくらい大きな動きで紡ぐ力のことだ。

達人はその逆の暗勁、つまり外見からまったく分からないほど微細な動作でいきなり大きな力を出せることで有名な方だった。僕は凄い威力だと思っていたのだが、彼にとってはまだ十分ではなかったらしい。その言葉も僕が開展を求める大きな要因である。

身体をバラバラにするには、なるべく大きく伸びやかに解放して動かなければならない。そのためのメソッドは僕の流派にあるが、基本のものをそのまま使っただけではまだ足りない。宗家が膨大な体系の中からエッセンスだけを抜き出したと語られたからだ。基本を応用することが上達の鍵である。
https://www.youtube.com/watch?v=IWbyXMQ9ZPk#t=17
少し変化させて僕は劈掛掌の動きをこれまで取り入れてきた。

全身の力を抜きさり、腰を支点にして上体を上下左右に振り両腕を風車のように振り回す」

劈掛掌は僕が知りうる限り、最も大きな動きをする流派である。その中でも、胸を開く・閉じる動作を最近は重視してきた。それなりに功がなったのか、宗家や師範からお褒めの言葉をいただいた。

「もっと、開きたい」

そう思って自分の本棚で昔の本を探っていたところ、再解釈があった。
これは、前衛的な空手である「新体道」の稽古の一つ、連続反り飛びである。

以前にこの新体道の本を読んだときは、「鍛錬が前衛的、抽象的すぎて意味がまったくわからない」という感想を持ったことを覚えている。そのときから僕も少しは成長したのだろうか。なんとなく用法や効果が分かるようになってきた。

新体道の鍛錬は内に籠もらずに外に大きく解放することを重視するのだろう。この連続反り飛びが良い例だ。これほど「開く」例は正直いって、他の流派には見当たらない。劈掛掌でさえもだ。これからの開展は新体道を取り入れて鍛錬しようと思う。「あらん限り開く」意識を持つ。閉じるときもリミッターを外すくらいの勢いで閉じる。

しかし、思いっきり飛び跳ねるのはいささか宗教チックだなあ……。と思ったが、ハタと気付いた。新体道は神域に達するための「道」というコンセプトだった。ならば、その行が宗教になるのは仕方ない。

古来から、呼と吸、解放と呼び寄せ、外界と内界は魔術や宗教で重要とされてきた。呼吸は、外と自分の中を繋げる役目を持ち、神を内側に取り込む。そのイメージは洋の東西を問わない普遍的なものだ。「開き」と「閉じ」を思い切りやるなら、そのイメージは付いて回るのだ。仕方ない。

武術は魔術や宗教と構造が似ているせいか、リンクしやすいのだ。八卦掌の走圏だって、元はスーフィズムだもの。ぐるぐる回ってトランス状態、つまり神が入ったと見なされる状態が武術的なパフォーマンスを最大に発揮することを誰かが見つけて取り入れたのだろう。

歩きや呼吸は無意識に繫がっているからなあ……。盆踊りだって、くるくる回ることでトランス状態になって神を降ろすのが目的だったりする。伝統のお祭りの元を辿れば、必ず宗教にたどり着くのはそういうわけである。

……now exploding……

最後に「爆発」の意識について語ることにする。その意識を持つきっかけはかずくんとの語りにあった。

「最近、脱力の意識が大事だなと思ってるんですよ。ロックダンスでヒットという技で意識するようになったんです」

そう言うやいなや、彼の腕の三頭筋が弾けるように膨らんだ。ポップコーンを想起するほどの弾け具合だ。

「力を入れることは出来るんですが、力を抜く意識も大事だと分かったんですよね。そっちの方が筋肉の弾きにメリハリが効くことで大きく見えるじゃないですか」

そこで、僕の脳裏に爆発のイメージが浮かんだ。例えば腕の力こぶを作るときに、無意識のうちに力こぶの少し上に意識を集中するはずだし、そこに集中した方が力こぶを作りやすい。それが、「力を入れている」ということだ。逆に力を抜くときには、力を抜くところを意識せずに遠くに意識を飛ばすといい。僕はいつもそうしている。

なら、力みからの急激な脱力への切り替えはどうするのか。それに当たる、意識の集中→拡散を成立させるイメージが「爆発」だったのだ。

このことをかずくんに伝えたが、僕の中で整理された「爆発」のイメージはある仮説の元に組み込まれた。その仮説とは、「脱力」と「伸筋」の橋渡しに爆発を使えばいいのではないかというものである。

「脱力」とはいつも僕が行っている、「全身をバラバラ」の元となる技法である。一方で、「伸筋」とは身体の伸筋を繋げて一本の槍として使う技法である。基本的に、僕の流派では脱力を行い、伸筋を嫌う傾向にある。まずは脱力を求められるからだ。その後なら伸筋を簡単に使えるのだが、逆は難しい。それは、前回の宮本武蔵の引用の理由からだ。

たまに伸筋も使うが、基本的に圧倒的に脱力の方が使い勝手がいい。それでも、何かしらの状況で伸筋が脱力より優位になることだって考えられる(今のところ思いつかないが)。

僕の悩みとして、脱力状態から伸筋に移行するのは簡単なのにその逆を瞬時に行えないというものがあった。しかし、この「爆発」はその橋渡しをしてくれるイメージなのではないかとかずくんとの対話で気づいたのである。

全身の伸筋を繋いで一本の槍にするのだが、そのとき爆発のイメージを使って一瞬だけ伸筋を繋げる。そして、そのあとは振り戻しによって瞬時に脱力状態に戻ることができるという仮説だ。

この仮説を使ったところ、脱力状態から突然、伸筋を一瞬だけ使うことができるようになった。後は、伸筋が有効な状態を探すだけである。

2014年11月10日月曜日

11月8日(土)けが

レッスン中に、けがをした。
ジュテ・アントルラッセ(ジャンプ)の着地の際、右足のくるぶしの脇が、「バチッ」と音をたてた。

またか…。

去年の7月にも同じけがをした。
あのときも同じところから音がしたけれど、「パンッ」という音だった。
骨挫傷で済んだけれど、本番5日前だったから致命的だった。
なんとか一作品踊ったけれど…。
そのせいか治りが遅くて、リハビリが完全に終わったのは、今年の1月だったなあ。

音がした瞬間、一年前のことがものすごいスピードで思い出された。


レントゲンを撮ったところ、幸い骨には異常はなかった。
湿布・サポーター・松葉杖。

人生で3度目の松葉杖とのご対面。
松葉杖って、とんでもなく疲れるんだよなあ。

松葉杖で疲れないような身体の使い方ってないかな…。
今日明日は安静にしないといけないから、月曜日、学校に行きながら模索してみよう。


家では、自分の部屋が二階にあるため、いちいち階段を松葉杖で上り下りするのが面倒だ。
だから、階段を上るときは、まず右膝を段にのせ、その段に左足をのせて、そこからグッと左脚の脚力だけで立ちあがる。そしてまた右膝を、足を置いていたところおり2段上の段にのせる。
これは、中学3年生のときにはじめて松葉杖生活をした際に思いついた階段の登り方である。
右足をつかないように一段ずつ上る、というのが辛くて、どうにかして一段とばしのリズムを作れないかな、と考えていたときのことだった。
これならわりと速く上ることができる。
しかし、左足の前腿への負荷が大きく、また右膝も痛い。

いつもたたたたっとなんの苦も無く上っている14段が、今はまるでボルダリングのよう。

身体の部位の片側だけで動くというのは、どうしても元気なもう片方を痛めつけることにつながってしまう。
けがから復帰したときに、左足になんも問題もなくバレエを踊りたいのに、これでは左脚をけがしそう。

どうにかうまく対処する方法を考えないとなあ。

2014.11.10 Koseki

2014年11月9日日曜日

バウンディングについて。

きょうは部活の同期の走り高跳びの選手が、十種競技に出場していたのでその応援をしていた。ひまな時間にいろいろと身体を動かしていた。最近自分の中でブームであるバウンディング(立ち五段跳びの動き)を行った。もちろん前回かいた通り「ダブルアーム」での練習である。まず前回やったより、いろいろいい気がした。同期の三段跳びの選手も試合会場に来ていたので、その動きをみてもらった。すると、「いいね。腕の使い方も悪くないよ。あとはもっと緩急つけられればいいね」と評価をいただいた。いろいろ議論をしていると「肩甲骨を後ろに大きく引けると、自然と同じ側の骨盤が前に出てくるらしいよ」という身体の仕組みを教えてもらえた。
緩急とは、接地の瞬間は腕はMAXスピードになり瞬発的に力をいれるが、そのあと空中での局面では腕の(上体の)力は抜くということであろう。さらに別の選手にみてもらったところ、「いいじゃん。でも、腕は必ずしもたたむ必要はないよ。接地の瞬間だけ勢いつけられれば。」というお言葉をいただいた。 
これらの評価について、第一声が褒め言葉であったことはかなり嬉しいことだ。やはり身体をコントロールする能力が向上しているのだろう。さらに上体の力みに関して言われそうだなというのもなんとなくわかっていた。これに関しては「肩甲骨まわりの動的柔軟性を向上させる」というアプローチが不可欠であると思う。

今日の練習中にもひとから評価をもらう前に自分でいろいろ試行錯誤して向上したところもある。(自分の動きを動画にとりみることにより。)それは脚のさばき方である。最初はかかとをややお尻にひきつけながら行っていたが、それだと腿付け根と膝の成す直線が水平まであがってこない。つまり膝の上がり具合が微妙なのである。これは跳躍距離をかせぐのにロスなので、もう少し、ひきつけずに膝を高くあげることを意識すると、滞空時間が長くなった。 また、右脚を前に出しているとき(左足が接地している瞬間)はダブルアームながらやや左肩が前に出ていたが(右肩より)、逆に左脚を前に出しているときは肩のラインに前後はないことに気付いた。これに関しては、前者の方がいいなと思った。なぜならそれこそ「ナンバ」の動きであり、重心を前にすすめていくのに理にかなっているからである。
よって、次バウンディングの練習をする際は、振り出した脚の反対側の肩を前に出すということを実践しようと思う。
この「接地している脚の側の肩を前に出す」動きは、上述の「振り出している脚の側の肩甲骨を後ろに引く」という動作とほぼ同値であるべきなのではないかと思い至った。

なんにせよ、これから肩甲骨周りの動的柔軟性を向上させていく努力が必要なのは間違いなさそうだ。
以上。

「脱力」して発揮する力


学校でダンスのリズムトレーニングを行っていた時のことだ。以前、身体班の仲間から、「脱力」する話を聞いた。力を発揮すると聞くと、筋に力を入れ、思いっきり動かすイメージがある。しかし、逆に「脱力の意識によって、力を発揮する」ということを彼は、目の前で見せてくれた。

 

彼は腕を体の前に出し、その腕を掴んで強く押すようにと私に言う。言われたとおりに押してみた。一回目は簡単に彼のバランスを崩し、後ろに押し切ることができた。しかし、二回目は違った。彼は、ブルブルっと体を振り腕を垂らしてだらんっとした姿勢を取ってから、そのまま腕を前に差し出す。私は押してみた。一回目と全然違う。押し切れないどころか、逆に私の体に圧力を感じる。重く、固い。しかし、体の姿勢は依然としてだらんっとした姿勢である。とても不思議だった。さらに彼は言う。「脱力するときに、膝の力も抜いて、上半身ごと下に落ちてみる」。

 

今日のダンスのリズムトレーニングはウエイトトレーニングを行った後に始めた。筋肉が張ってしまっているために、どうしても力の入ったフォームになってしまう。僧帽筋に力が入り、上半身が縮こまり、肩から腕にかけて筋肉が硬直している。そこで、一回リズムトレーニングをやめてみた。ふとジャンプをして、力を抜こうとしてみた。

ここで、彼の話を思い出した。ジャンプして空中でのリラックス感のまま、着地も膝を抜いて下に落ちてみよう。とても気持ちがよかった。上半身ごと下に落ちてそのまま上へ再びジャンプをするときも、力んでいる感じがしない。上がりながら、ふつふつと力がこみ上げている感じがする。とてもワクワクしてきた。この感覚は初めてだ。ジャンプってこんなに楽で気持ちがよかったけ?しかもフルレンジなのに。

 

リズムトレーニングを再開した。感覚が全く違う。なぜだろう。鏡を見ると、肩が16ビートを刻んでいる。明らかに力が抜けている。それによって、首の動きもなめらかで自然である。脱力は下半身にも至る。膝と骨盤がなめらかに連動している。リズムを取ろうとしなくても自然と刻んでくれる。リズムトレーニングのときは、膝はどう動いているか、上半身はどうか、骨盤はどうか、ということばかり考えている。しかし、その意識はない。それぞれの部位が互いにコミュニケーションを取り、リズムを打ち鳴らす。私はそれを聞いているような感覚だ。楽しい。それによっていろいろな音が聞こえてくる。ためしに技を織り交ぜてみる。今まで感じ取れなかったタイミングも見えてきた。このタイミングでこの技を出すことで来たっけ?とにかくいろいろな発見が多かった。

 

これらの発見をなぜ得ることができたのかは、まだわからない。しかし、上達していくにはこれらを解明させていく必要がある。これから練習を行ていくときの問題意識の一つとして、しばらくテーマに掲げてみようと思う。

2014年11月8日土曜日

どうせ「小さな世界」しか見せられるものはない

最近の気づきでもないけれど、僕の武術的理想について発散しようと思う。
その元となる武術観に多大な影響を与えた作品の話を最初にしようと思う。
中二病全開につき要注意。濃厚です。


……closing to ideal……

高一の夏。その作品に出会ったとき、瞬く間にその豊穣な世界観に魅了されて引きづり込まれていった。文庫本に換算すると、文章量だけで20冊に値する作品だ。読んでは寝て、寝ては読んで、一週間にも満たぬ期間で読破してしまったほど引き込まれた。

「Fate/stay night」というゲーム作品である。荒々しく筋をいえば、作者独自の魔術観の上で、魔術師や過去から呼び出された英雄たちが鎬を削りあうという内容だ。現在、二度目のテレビアニメ化が実現して放映されている。(それに焚き付けられて書きたくなった次第である)

語りたい魅力や哲学は様々あるが、今回は一つの光景に絞って言及しようと思う。

その光景が意識に刻まれて離れず、いつしか僕の武術にも反映されていた。それほど、当時の僕には鮮烈な光景だった。
緋い空の下に延々と荒野が続く。そこにまるで墓標のような寒々しさで無数の剣が連なる。

この光景は登場人物の一人の内側に広がる「心象世界」である。その人物は、剣を見ただけで内包される創造理念・基本骨子・構成材質・製作技術・憑依体験・蓄積年月の六つをほとんど完璧に読み取ることができる。そして、無意識の内にこの心象世界に連なる複製の一本に加える。

そういう特技を持っているおかげで、どんな伝説上の名剣も一目見さえできればコピーできるのだ。そして、戦闘の際には心象世界から数本を選んで魔術によって現実世界に顕現させる。

「ファンタジー世界なら、どんな名剣でも使えて最強じゃん。草薙の剣でも頑張って見て作れば?」

こういいたくなるところだが待ってほしい。あくまでも複製であるせいでオリジナルからワンランク落ちることと、強い剣を作っても本来の使い手ではないため性能の100%を引き出せるわけではないという二つの理由から簡単に最強にはなれない。千の90を持っていたところで、一つの100を持つ相手には一点突破されてしまうのだ。

だから、この人物は勝つために策を用いる。

例えば、ギリシャ神話のゴルゴンと戦うとしよう。伝説では視線を合わせるだけで人を石化させてしまう強力な怪物であるが、どうにかその正体を看破してしまえばこの人物にとって打ち破ることは難しくない。
鏡を持って近づくことで視線を受けないようにして、ペルセウスが使った首刈りの鎌であるハルペーを振りかざせばいいのだ。

つまり、①正体を看破する②正体に秘められた弱点を見抜く③弱点を突くための方策を用意する。

この三ステップを踏むことが策である。どんな英雄だろうと何かしらの弱点はある。それがゴルゴンほどあからさまに致命的なものでなくても、手をかえ品をかえて弱点だけを攻め続ければ勝つのは容易な作業となる。

……now adapting……

これでようやっと、僕の戦略の話に繫がる。賢明な方なら、おぼろげながら「世界」についての記述を思い出すのではないだろうか。

「世界」に遊ぶ。無限の側面に遊ぶ

如何に相手の流派の「世界」の真価を殺して、自分の「世界」を活かしその土俵に引き込まなければ勝てないのだ

この記述である。石化の視線を持つゴルゴンに対して、鏡を使うことが前者、弱点となるハルペーを心象世界から引き出すのが後者に当たる。

ここまで書いて、宗家が以前に零していた言葉を思い出したので引用する。

「あるとき、舞踊の先生に、君は本当に強いのかと聞かれたときに困ってしまった。なぜなら、自分が強いのかが分からなくなってしまっていた時期だったからだ。

相手の弱点を徹底的に攻めて勝つ方法を自分は確立したため、勝つことは容易になった。しかし、それが強いことに繫がるのだろうか。

何十年と武道を修業した人は強いだろう。だが、その人やその人が修めている武道の弱点を徹底的に突く方法を教えてしまえば、たとえ武道歴のないズブの素人でもその人を倒すことができる。

勝つことはできるが、それがイコール強いということなのか。そもそも強いとは何か。自分でも納得が言っていなかったため、自信を持って自分が強いと断言できなかった」

僕も全てを教授されているわけではないが、僕の流派では他流破りの方法が確立されている。その全てがオリジナルというわけではない。宗家自身が「うちの流派はパクリ流派」と公言されているように、その方法は他派が他派を破るために研究した方法も多分に含まれる。

「うちのコンセプトはジークンドーと似てる」

とも言っている。ジークンドーとはブルース・リーが創始した流派で、「型に嵌らず、使えそうなら色々な他派を取り込んで良い」というコンセプトを持っている。

同じように、僕の流派は様々な他派を取り入れて構成されている。

メタファーでいうなら、先ほどの心象世界の剣の一本一本が他派の流儀であり、技である。ナルトのカカシじゃあるまいしそんなに簡単にコピーできるものなのだろうか、そもそもコピーして戦うなんて戦法はよーりの勘違いじゃないのと疑問に思うかもしれない。その問いは僕の流派が持つ「世界」の入門が答えているように思う。つまり、「優れた身体」を作るための基本が指し示している。
「世界」に遊ぶ。無限の側面に遊ぶ

「脱力することでバラバラに分割して動かせる、また、自在に協調して動かすことのできる身体」

この身体は、骨や筋を柔軟にして寸断したのちに練り上げることで出来る(そのためのメソッドが多くある。ここでは割愛)。この身体を作るとどうなるのか。

この身体が実現すると、どんな技でも一定以上の水準で再現することができるのだ。
宮本武蔵『五輪の書』
リンクは僕が執筆したコラムである。引用する。

剛体から柔軟への変化は出来ない一方で、筋肉の締めを応用した柔軟から剛体への変化が可能であることも、柔らかさの可能性の一つである」
強ばって全体がコチコチだと固い技しか出すことができない。脱力した技を使うことができない。対して、柔らかであれば、脱力した技も固い技も自在に使い分けることができる。

再現するためのハードがある。ならば、再現するためにソフトとなる技の原理を見抜く眼力を用意したいところだ。見抜けばコピーも容易である。そして、「読み」が僕の流派では重視される。読みが全てと言われるほどだ。

現実に宗家は人の構えを見れば、修めている流派はもちろん、擁される原理や応用までも見抜いてしまう。技もそうだ。一度見たら、オリジナルの人よりも上手くこなしてしまうこともある。さらには、その構えと技を破る方法もどこからともなく引き出してしまう。だからこそ、弱点を見つけ出して攻め続けることができるのだろう。

元々がジャグラーであって映像でジャグリングを修めていたため、僕は真似をするのがまあまあ上手な部類であると思っている。独学で武術をしていた期間でも真似をしていた。しかし、宗家はもちろん師範の真似力には全く劣る。なぜだろう、とメタファーからフィードバックすると相手を真似る糸口が少し見えた。(フィードバックを得られるまで自分ごととして本気で捉えることがフィクションを娯楽で終わらせない鍵だと思っている)


①創造理念=技が生まれた背景
②基本骨子=技の原理
③構成材質=身体つきや仕草
④製作技術=どういった練習方法をするか
⑤憑依体験=どうやって応用するか
⑥蓄積年月=技がどれだけ古いものか

あくまでもメタファーに当てはめたものであるため実際はもっと多いかもしれないが、これが僕が立てる眼力の内容の仮説である。例えば、合気道の四方投げを例にとる。
https://www.youtube.com/watch?v=MhKN0I8gLu8

まず、足下を見るに、シュモク足になっている。
足をハの字に開いて拇指球に体重を載せる構えである。足先の方向を揃える剣道とかなり対比的である。これは発祥した状況が違うためその中で技術が洗練された結果である。剣道では一対一の稽古が多いため前後に動きやすい足先揃えとすり足が残った。

対して、⑥合気道は対多人数を想定した古流剣術の流れを組む。多人数で入り乱れるときには四面から来る敵に相対するために素早い方向転換が必須となる。撞木足はそれがしやすい。右の拇指球に体重をかければ左を自然と向くし、左は逆である。すなわち、剣道は竹刀での一対一稽古が主流となった江戸後期に発祥したのだと分かるし、①合気道は対多数が当たり前の戦場や喧嘩で培われたものだと分かる。

合気道の足を見るだけで多くのことを読み解くことができる。さらに、④稽古に乱取りがあるはずだと分かる(実際は流派による。富木流や西尾流、養心館といった実戦主義を唱えるところは当然採用している)。また、方向転換が容易ということから回転系の技を多用すると推測できる。つまり、その足から出される技の原理を類推できる。②だ。

足の他に身体つきや仕草などもある。本気でその流派をする人は自然と「優れた身体」になっていく(そうなっていない人の技は効果半減)。逆説すれば、身体つきと仕草からどんな流派なのかを見てとれる。合気道なら姿勢が正しく、重心が低く、滑るように移動する。呼吸が深く、目配りが広い。

合気道の特徴を知っていればその条件に当てはめることができるし、知らなくともいくつかは分かり、そこから類推して補完することができる。①〜⑥は連環しているからだ。

……now watching……

こうようにして眼力で読み取ったことは、他派破りにはもちろん、自分の複製技術の向上にも繫がるはずだ。①〜⑥をより詳細に読み取ることができれば、自分の技のチェックや意識に活きる。

長くなったが、一目で相手のスタイルを見取った上で環境に応じて弱点を突くような技術を自分の中から天衣無縫に、しかも高い練度で引き出すのが僕にとっての理想である。

そのために眼力、読みをどうすれば高めることができるのか……。やはり、メタ認知が必要なのかもしれない。写真や動画で高いレベルの他派を見てどんなことを感じるのかをメタ認知する。語ることで、これからの課題がはっきりした。


さて、「世界」と武術の繋がりについてまとめたい。

以前にも語ったがそれぞれの流派には「世界」がある。読みの技術はその「世界」を①〜⑥の観点から読み解くものだと言えるだろう。読み解いた上で、複製するなり、弱点攻めに利用するのだ。

先述の宗家の言葉ではないが、強さとは何かを尺度にして測るものだと思っている。それは絶対的なものでも普遍的なものでもない。大きさを測るには何かを比べることが必要だし、それを比べる物差しも様々あるからだ。だから、「強い」といったときにはその「世界」という物差しの中での到達点を指しているのではないか。そういったフレームの中で競争しあって洗練されて「強く」なるのだ。
そして、どんなフレームだろうと、フレーム同士を比べることはでない。フレームとは構造主義的に自己完結した完成した「世界」だからだ。文化と文化を、例えばキリスト教とイスラム教のどちらが素晴らしいかを比べることはできない。そして、武術も文化という構造なのである。身も蓋もなくいってしまえば、「武術は相対的だよね。どの流派もみんな違ってみんな素晴らしいよね」ということになる。

したがって、同じ流派内なら「強さ」で簡単に個人同士の優劣がつく。

その一方で、違う武術同士が戦うときには価値観の違う「強さ」をぶつけあうため、勝った方が「強い」と断言することはナンセンスだ。しかし、「強い」かはともかく、勝つための手段を講じることはできる。

他流と戦うときに勝利するポイントは何か。それは、フレームという構造がどうしても内包してしまう構造的弱点(盲点と言い換えてもいい)を突くことだと考える。日本家屋なら、屋根にのしかかるのではなく、支柱を折るようなものだ。強いところを攻めても持ちこたえられてしまうが、弱点を突けば自ずと崩壊する。
相手のフレームの弱点を徹底的に突き合うのが、流派同士の戦いなのである。そのときに必要なのは、自分のフレームの中だけの「強さ」ではない。自分のフレームを熟知してその弱点を隠しながら、相手の弱点を見破って、即座にそのための方策を創出するという「上手さ」が必要なのではないか。

ここに至って、僭越ながら僕は宗家のことばに答えを出すことができる。つまり、僕の流派で重視されるのは他流を破る「上手さ」であって、自流の中での「強さ」を目指さないのだ。僕が理想とするのは「最強」ではなく「戦上手」ということになる(勝手ながら、腹オチした)。

といっても、この「他流を破るための上手さを目指す」と主張した瞬間、そこにはメタな構造、「世界」が生まれるから、これも弱点を内包するに違いない。

それでも、相手の構造を見破り自分の中から剣に見立てた技を引き出して変化させるという構造しか僕にはない。もはや、この「小さな世界」しか僕に極められるものはない。

「小さな世界」を探検することで弱点を見つけつつ、ときおり、技を磨くことしかできることはない。

いや、欲を付言したい。

新たな説を作れば、それを否定する「他者」が必ず現れると現代哲学は発見した。僕はなるべく「他者」を探してそれすらも「世界」に取り入れたい。それが進化の鍵だから。

今日も僕の「世界」をひけらかしたところで、筆を置く。中二病で失礼。

11月6日(木) だれかの姿勢を再現する

とあるプロジェクトのミーティング。
先輩と2人で床にぺたっと座りながらの話し合い。
私はあぐらをかいていた。

ミーティングのログをとろうと、脚にPCをのせてキーボードをかたかたと鳴らす。

あれ?なんかこの感じ、陽理っぽい。
(※陽理…身体班のメンバー)

この自分の姿勢に、陽理を感じた。

陽理といえば、研究会中いつもあぐらをかいた脚の上にPCを置いていて、タイピングするときはひじが体側の後ろ寄りにあり、手首がPCの上で固定されて指だけが動いている。



写真は机に座っているときのものであるため、少し姿勢が違うけれど、手首が固定されている状態は分かっていただけるのではないだろうか。


でも、私はこのとき、特に手首やひじには意識がなく、陽理っぽさの具体的な要素は考えず、「なんとなく陽理っぽい」としか感じていなかった。

そのなんとなくの陽理っぽさを感じて、思わず先輩に「これ陽理っぽくないですか?!」と聞いてみたら、「ほんとだ!」と。しかも、「手首の位置とかそっくりだね!」と言われたのだ。

そういわれてはじめて気づいた。
陽理がキーボードをたたく「手首の形」が特殊だったわけではなく、この姿勢だと、そういう手の形・ひじの位置にならざるを得ないのだ。
だって、私は手首は意識していなかったのだから。

そして今日も、スケッチしてみた。


陽理のまねをした自分の姿勢を描いていて気付いたのは、
実は思っていたほど前傾姿勢じゃなかったこと。

自分の感覚では、「前傾した状態」だと思っていたけれど、実際自分の背中を見てみると、そんなに前傾していない。
しかし、ひじは後ろにあった。
なるほど、ひじが後ろにあることが、胴体が前傾している、というふうに感じさせたんだな。

スケッチをしていると、身体をしっかりとモノとして見ることができる。
これは今まで研究会で様々な課題をやってきた中ですでに分かっていたことだったけれど、自分の身体に向き合うには絶好のツールなんだ。




今日はたまたま、陽理の身体を再現できたけれど、こうやって、誰かの見た目をまねをすることで、今まで意識したことのない身体の使い方に出会えるかもしれない。

次はだれのまねをしようかな…?


2014.11.6 Koseki

2014年11月7日金曜日

ケガがほぼ治ってきました。

きのうの練習できづいたことを書く。
きのう、ケガがかなりよくなってきたということで、少し勇気を出して「立ち五段とび」を行った。立った状態から5歩とんでできるだけ遠くにいくというものである。
もともと足首を怪我していたため、この練習を積極的にやることはなかった。重要性はそれなりに感じていたのだが。今回やってみると、案の定身体が重い。はさみこみの、切り返しのスピードが全然ないメリハリのない跳躍となってしまう。まさに怪我明けなのが顕著に出た。何回かとんだあと、ふと「ダブルアーム」でやってみようと思った。ダブルアームとは、接地の際、両腕を同時に前に振り出し、爆発的に跳躍するやり方である。三段跳びの選手にこの方法でやる選手が結構いる。真似してやってみると、意外とできてしまった。以前になんとなくかっこいいなと思ってやってみたことがあったが、まるでタイミングがつかめず全然できなかったのだ。なのでびっくりした。自分の身体の操作性は1年ほど前にくらべてここまで進化していたのかと感じた。実際シングルアームとの距離の比較はまだしていないが、この冬はダブルアームでの立ち五段とびを積極的に実践していこうと思う。その理由として、自分は走り高跳びの踏切においてダブルアームだからだ。いつも踏切で上体をつかう感じが全くないので、この練習をすれば上体で引き上げることができるようになるのではないかという期待のもとである。
そして、ダブルアームでとんでいるとき、後輩から「肩甲骨がまったく動いていません笑」と笑われてしまった。このダブルアームの練習をちゃんと行うことで肩甲骨まわりの動的柔軟性も得ることができるのではという思いも寄らなかった期待が生まれた。
今はこの「ダブルアーム」に非常に可能性を感じている。
以上。

ケガ中の模索・・・⑦


ORFがせまってきている。データ数を増やさなければという焦りとともに毎日更新を目指します。
 ケガをしている左ハムストリングスの具合がかなりよくなってきた。ひきつける動きも、あまり怖くなくできるようになってきた。力が入りにくいという感覚もほぼなく、左右差もあまりない。嬉しい限りである。11月中には完全なる完治をさせたいと思う。12月から本格的な冬季練習に入れるように。
 しばらくブログを更新できていなかったが、たしかにここ数日まで新たな気づきは少なかったかもしれない。ブログを積極的に書く姿勢がなかったのもそれが大きく関わっていると思われる。それでは最近の気づきを。

 ひとつめ。走りの具体的イメージに関して。以前のブログの内容は「両肩と骨盤の右端左端を点だと思い、その4つが直線でつながれている。その四角形の4頂点の動きに着目した走りの意識のinputがいい。具体的には右足が接地する瞬間だと、左上の点と右下の点を前に出していくイメージがよいということだ。それを毎回の接地で左右を入れ替えながら意識していく」 といった感じだった。さらにその後、「膝をだしていくイメージで走るのがもっとよい。その際、踵の軌跡が直線となるようにややひきつけながら前にだす
のが良い」ということに気付いた。 今回は、前の2つのイメージをなんとなくつなげた意識となる。「身体に縦に2本の軸があるイメージをもち、接地している足の逆側の軸を前に出していく」という意識だ。その軸は、身体に刺さっているのではなく、身体のほんの少し前に刺さっているというのが重要なポイントである。すると、かなり気持ちよくはしることができた。一歩一歩のストライドがだいぶ変わった感じがある。一歩一歩をポーンポーンと飛び跳ねている感覚も得られる。ただし、この意識のinputだと、身体のコンディションがかなりいいときでないと、上に挙げた「一歩一歩のストライドがだいぶ変わった感じがある。一歩一歩をポーンポーンと飛び跳ねている感覚も得られる。」という感覚まではちゃんとは得られない。そこで話題は2つめにつながる。
 
 ふたつめ。以前からなんとなく気付いてはいたことだが、「身体を休めた次の日は、身体のコンディションが微妙」ということである。大会直前をのぞいて、あまりコンディショニングというのはいままでやってこなかった。その中で経験的に気付いていたことが、今回確固たるものに変わった(ひとつめの意識の走りでいい感覚が得られる日・得られない日を比較することで)。身体を休めた次の日は、特にアップの段階で身体がけだるい。走りのイメージも思った通りに動かない度が高い。しかしその次の日となると、前日に身体をまあまあ酷使していても、アップの段階から身体が起きている感じがする。こういう日は、走りの意識のinputの結果、割といい感覚を得ながら走ることができるのだ。

身体をやわらかくする努力を毎日して、走りの感覚も細かく考えるようにすると、身体のコンディションのいい悪いに敏感になるようになる。それまでは細かく考えすぎないようにあえてしていた部分もある。冬はきついトレーニングがつづくので、その中でいかに身体のコンディションと身体感覚の関係性をよくしていけるかが問われるのではと思った。

以上。

2014年11月6日木曜日

11月5日(水) スケッチする

今日は、踊り終わった直後に、感じたことを書いてみた。
いつもはレッスンが終わったあとに書いていたけれど、今日はバー・レッスンのときからずっともやもやしていて、すぐにでもノートに悩みを打ち明けたくなってしまった。

バーにつかまって、第1ポジションになった瞬間、「今日だめだな」。
下腹部が引き上がらない。
引き上げようとして、最近の注目ポイントになっている「内腿を前に」出そうとしても、付け根がそれに連動しなくて、引き上がらない。

なんというか、腹筋がとっても長くなって、下半身と上半身がつながっていない感じ。

今日はレッスンの中で、久しぶりにみんなで腹筋の筋トレをしたのに、なんで今日は腹筋が鈍いんだろう。
でも、筋トレ中はとても心地よかった。
やっぱり最近踊りながら腹筋を意識できるようになったからかな。

・・・

パッセをするとき、最近気づいた「付け根で腹筋をえぐる感覚」を使おう!そうすれば腹筋の鈍さも解消されるはず。
そう願いながら実践してみたけれど… だめだった。

身体がびくともしない。言うことをきかない。
下半身と上半身をつなげたい…!

そんなふうにもやもやをノートにぶつけながら、今日はこのコンディションに対してどんなアプローチをしたんだっけ、と思い出してみた。

・・・

以前、美和子さんに教えていただいた「胸鎖関節の手袋マジック(私が勝ってに名付けた)」は、今日も踊る前に実践。
ひも付き(両手がつながっている)手袋のひもが、胸鎖関節からぶら下がっているように意識する。
これは、胸鎖関節から手が直接つながっている感覚を養うもので、これをやると、まるで肩がなくなったかのような感覚になる。
手が、鎖骨から一本のひもでつながっていると意識するため、「腕が重たい」という感覚が返ってくる。
腕が重たいと感じるときは、いい踊りができる。

でも、今日は踊りのなかでこの感覚を使えた気がしなかった。

・・・

私の次に、2つ上の先輩が踊った。
そういえばこの作品も、パッセがたくさんあるんだよなあ。

鏡越しに先輩の踊りを見ながら、この人のパッセは見ていて心地が良いな、と思った。
なんというか、かかとが腹筋に突き刺さっているような感じ。
ポアントで立つたびに、カーンッ!とかグッとか音が聞こえてくるような感じ。

これをどうにか記録したくて、今まで文字しか書いていなかったノートに、突然絵を描き始めた。



絵が下手なので、あまりスケッチをサラサラと描くことはないのだけれど、今日は、下手でもいいからスケッチとして残したかった。

・・・

ピルエットの後の左脚を上げるアティテュード、立つ瞬間に上げた脚が揺れてるよ、と先生に指摘された。

鏡を見ながら何度もやってみると、軸足が、ポアントで立つときに少しジャンプしており、その反動で上げた脚が揺れているということが分かった。

足を踏み込んだところから、つま先を少し引きながら立っていた。

これもスケッチしてみよう。
そう思って自分の身体を改めて鏡で見てみた。


描いてみてわかったのは、このとき、私は骨盤の傾きにはまったく意識がいっていなかったということだった。
スケッチしようとしたら骨盤が描けなくて、思わず鏡に助けを求めたのだ。

図の赤いラインの上に立ちたい。
そうすれば、ジャンプしてしまう心配のない。

「行った先に立つ」という意識を持って実践してみたら、スイーっ、スイーっ、という感覚だった。
「なめらかに浮いた感」。

今までのは、「カン!どわゎゎゎゎぁあん」という感じだったから、そうならないように、「なめらかに浮いた感」を意識してこれからやっていこう。


*おまけ*

後輩の踊りを見ていて、腕の使い方が気になった。
なんか違和感があるけれど、何が違和感の正体なんだろうとスケッチをしてみた。

あっ、腕を動かすときに、肩と手先しか動いていないんだ。
二の腕と、肘と手先の間をもっと使えばきっと素敵になるだろうなあ。




今日の収穫「スケッチは良い。今まで自分がどこを意識していなかったかが見える。」



2014.11.6 Koseki

2014年11月5日水曜日

古(ふるき)を稽(かんが)える

伝統と現在のアダプタです。よーりです。

……now adapting……

今日はちょっとした気づきから。
前の記事(どこに球を置くか。虚の球を磨く)で言及した「這い」についての気づきである。

肘の高さが肩と同じになるくらいにまで両手をあげて腰を落とす。そして、顔を前に出してジグザグに足を進める。そのとき、地面と相対化して見て、腕が左右に動かないようにするのが這いの歩法である。パントマイムのように。

僕の課題として、「肘が外に開いてしまうのを直す」というものがあった。肘を外に開いていた方が楽に大きくジグザグに進めるのだ。逆に、肘を閉じてしまうと横に進むのが窮屈で仕方ない。威力のある突きを放ってくる相手と対峙するときは、つい大きく避けようと思って肘を開いてしまう。むしろ、どうして肘を閉じてしまえと流派で指導されるのかが疑問であった。納得がなければやすやすと直すことができない。

それが、先日の稽古での気づきによって解かれたのだ。

きっかけは、24式太極拳の始めの型である「起勢」についての教えであった。
24式太極拳
動画の一番最初の、足を開いて腕を肩まで上げて、腰と一緒に落とす、というシンプルな動作のことだ。こんな抽象的な動作がそのまま武術になるのが太極拳の深みだ。

腕を上げた状態のときに相手の突きが自分の腹に向かってくる。そのときに腕を落とすと、相手の腕に接触して突きが下に逸れる結果となる。以前から知ってはいたため、楽々できるように思われた。

「腕に力が入ってるね」

一応、突きも逸れて結果的に良い出来だと思ったが、師範にそう言われて気付いた。腕に力が入っていると、ガツっとぶつかるような手応えになってしまっていけない。上手くいくと、フワッと柔らかく重さが乗る感触があるのだが、このときはガツっとした手応えであった。

何を変えれば上手くいくのか分からないまま、次の指導に入った。這いの指導である。

這いのときの腕も太極拳の起勢と同じ意味を持っている、というのが指導の趣旨であったようだ。前に出したこちらの顔 を狙った突きを、上げた腕を落とすことによって逸らすのだ。

このときも、僕の肘は外に開いたままだった。何度か、逸らしをするうちに師範に指摘された。

「肘が外にあるから、真下に落とすときに一回閉じてから落とすことになる。ワンステップのロスがあるよ」

言われてみればその通りだ。さらに言うと、肘を外に開いたまま腕を落とすと、腕の軌道までも外に開いてしまう。実際に肘を閉じてやってみると、ロスなくダイレクトに重さを相手に伝えられた。

だが、「肘を閉じる」という意識の入力に何か違和感があった。何か身体にぎこちないものを感じた。そこで、フッと太極拳の姿勢の要件が意識に浮かんだ。

「沈肩墜肘(ちんけんついちゅう)」

両肩に下に沈めて、肘が常に下を向くように、という意味である。試しにこの意識で這いの構えをすると、左右に窮屈なのは変わらないがずっと自然になった。そのまま、腕を落とすと脱力したまま柔かく相手の突きを逸らすことができた。

きっと、起勢でもこの意識をすればよかったに違いない。這いは大気拳であるが、起勢は太極拳の型なのだから姿勢の意識にマッチしないはずがない。

技が技を考えたわけではなく、技を考案したのは古の人である。その人が何を伝えようとしたのかを、肘を開かないといった技の要求から考えるのが稽古なのだと改めて実感した。

さらにいうと、肘が落ちた状態で這いをしようとすると左右に窮屈であるが、ここからも古の人が伝えたかった戦術が見えてくるように思える。

窮屈でも一応、左右に半歩動くことができる。そして、それだけ移動できれば相手の攻撃を避けることが可能なのだ。
相手が自分の身体のど真ん中、例えば鳩尾を突いてきたとしよう。そのときに、肩幅の半分だけでも横に動けばぎりぎり躱すことができる。相手が自分の身体の左右どちらかを突いたきたならもっと余裕を持って躱せるだろう。

つまり、左右に窮屈であるということは、身体半分の幅という最小限 の動きで躱せ、という古の人からの伝令なのである。

さらにそこから色々な戦術が想起される。最小限の動きで躱すといっても、相手がどこを打ってくるか分からない状態で待つというのは大変、不安な心持ちになる。だから、逆の発想として「こちらから隙を作ることで、相手の攻撃がそこを打つよう特定させる。その上で躱す」というものが生まれる。

どこに球を置くか。虚の球を磨く(前の記事でも言ってた)

万全の構えよりも、どこかに隙を見せることで相手を誘導することができるのだ。這いでいうと、顔を前に出すということがこれに当たる。遠くに見える鳩尾や金的を打つより、近くにある顔に手を出してしまうという相手の心理を利用するのだ。


もう一つの最近の気づきはこれに近いものがある。「このまま当てることができる!という相手の意識の集中を利用する」というものだ。
http://shintaihan.blogspot.jp/2014/10/blog-post_30.html
これに近いことは以前にも書いていたが、もっと洗練させることができた。

簡単にいうと、後の先での工夫である。相手の攻撃を読んでから一方に避ける仕草をしてから逆に避けるともっと相手のマイクロスリップを殺すことができると気付いたのだ。

それは、前回の記事でも書いた非常に強い講師の方の動きを見ていて分かったことだ。その方と組んで打ち込むとなにがなんだか分からないうちに倒されるので、他の人と組んでいるところを見ていた。すると、自分で組んでいるときには分からないことが分かった。
https://www.youtube.com/watch?v=hZruJFZ6Kqo

この動画の25秒からのところに近い。相手が打ち込みやすい方向にわざと動いてから逆の方向に回り込んでいたのだ。これも後の先の一つの形なのだろう。自分と組んだときも、僕が打とうとするのと同時に動いていたことは分かっていたが、まさかそうしていたとは……。

例えば、人間の腕の構造的に右で殴りかかろうとしたときは、ストレートの訓練でもしない限りは一度テイクバックして自分から見て右に膨らんでから斜め左に殴り抜けるという軌道になる。だから、その方は相手が右で殴ろうとした瞬間にそれを読んでまず、自分から見て右に動いてから左に躱していた。相手が殴りやすい右にまず動くことによって「このまま当たる!」という意識を強くしていたのだろう。

そういった気づきから仮説が直感的に閃いた。

「自分の影を濃くしてそこを相手に切らせる」

この仮説のまま動いたところ、さらに相手を困惑させることができたように感じる。この仮説の意識で動くと、あまり意識しなくとも自分が顔なりを出した隙に相手が打ち込んでくるのを読んで、相手の打ちやすい方向にまず動いてから逆に避けることができるようになった。影を濃くするという意識が、打ちやすい方向にいったん動くことで相手にとっての意識の集中を強くするという行動にマッチしたように思う。

上手い人は避けた方向に突きがホーミングしてくるのだが、打ちやすい方向にホーミングが使われることでマイクロスリップによる修正が無駄に使われるのだと考える。

伝統と現代のアダプタになって、さらに古の人の考えを進めたところで筆を置くことにする。

2014年11月3日月曜日

体の末端と中心



秋冬に半袖タンクトップ大好きな山崎です。短い文章ですが、忘れないうちに記します。

先日、ジムでデッドリフトを行っているときのことだ。デッドリフトは広背筋や僧帽筋、背柱起立筋など背筋全般を鍛えるトレーニング法である。

このトレーニングを行うときに、悩んでいたことが、腕や手にウエイトを感じてしまい、背筋に直接ウエイトを効かす感覚が得れないことだ。しかし、ここ最近は段々その解決法が見えてきた。

それは「小指と薬指の意識」である。
ウエイトのバーを持つときに、意識が当たりがちなのは中指と人差し指、と親指である。これらを意識した握り方は、主に肩より下の筋肉を使う。試しにやってみてほしい。親指と人差し指、中指(以下、第1~第3指と呼ぶ)に集中して拳を握ると、腕や肩に集中的に力が入る。私は今までこの握り方でウエイトを持ち上げていた。

しかし、実はこれが先ほどの記述した「体の中心にウエイトが効いている感じがしない」原因の一つとなっていた。第一指~第三指を意識した握り方は、前かがみな姿勢になりやすい。この姿勢のままだと、ウエイトを腕で持ち上げてしまう感覚になってしまう。そこで握り方を変えてみた。薬指と小指(以下、第四~五指と呼ぶ)に集中してみる。これも試してほしいのだが、第四~五指を意識した握り方は、広背筋にも力が入り、胸が張る。(この感覚だ!)とはっとした。できるだけ体の中心の大きな筋肉を使い、重りと体の中心を近づける意識で持ち上げてみる。ドンピシャであった。明らかに背筋の大きな筋肉にウエイトを感じる。また、腕から肩にかけてはあまりウエイトをかんじない。むしろ力を入れてないのに、より強くバーを握れている感覚であった。第4~第5指と背筋は連動していることは知識としてはあったが、実感を得た瞬間であった。

末端の細かな動きは体の中心の大きな筋肉と連動する。他にもなにか発見があるはずだ。

2014年11月2日日曜日

引き出しを引くために。ワケワカンナクナルためのススメ

僕の悩みは、ドラえもんが慌てるときに似ている。
一人で、落ち着いているときにはスラスラ出てくることがいざというときに出てこない。

「あれでもない これでもない」

ドラえもんはポケットに便利な道具をたくさん持っているが、慌てると傘やらヤカンやらトンチンカンなものを出してしまう。まさに宝の持ち腐れだ。

いや、トンチンカンなものでも出せるならまだ良い。最悪を想定するなら、焦ってポケットの出口に道具が詰まって何も出ないときがそれである。

そんな、ドラえもんでもやったことのない最悪を僕はやってしまう。
のび太くんにこう言われても仕方ない。
ブログに偉そうに能書きたれている僕であるが、引き出しをつっかえさせてしまう、ストックを渋滞させてしまうのだ。相手の攻撃に合わせてリアルタイムに「最高の返し」をしようと考えるあまり、技が出なくなる、悪くすると立ち止まって居着いてしまうのだ。多くの技を持っているはずなのに、その中から咄嗟にベストな技を選択できないことが僕の大きな悩みなのだ。


この悩みに関連する問題をあげよう。その問題は諏訪研でも結構な頻度で話題になる。それは「引き出し問題」という。これを説明するなら以下のようになる。

「状況に合わせて、リアルタイムに良質なレスポンスを引き出すこと」

ラップや落語といった、色々な分野、競技ごとに、実践者は自分の技をストックしている。そのストックを状況に応じて引き出せるようになるのがその分野での一つの到達点だと思われる。自動化の一種といってもいいのかもしれない。
大築立志「運動技術と運動技能」

数ある分野の中でも、弓道やボウリングといった環境変数の変化が比較的少ないクローズドスキルに比べて、相手という変数がこちらの裏をかこうとしてくるというオープンスキルの極地である武術で引き出しを自在にすることは高等な境地だと思われる。さらに、その反応時間はかなりの短時間だ。

少なくとも、僕の流派の師範クラスは全員、この境地に達しているように見える。こちらが攻撃するごとに返される反撃に一つとして同じものがない。毎度毎度、こちらの意表を突いてくる、換言すると、そのときの僕のフレームを破る技が飛び出してくる。

宗家なんて「動けば即ち技になる」レベルだとご自身を呼称していて、実際にそうなのだから凄まじい。どんな攻撃にも引き出しから自在に技を取り出すだけに飽き足らず、その技の効果が低いとみるやいなや効果が高い技に流動的に応用していく。技を受けた実感としては、あれよあれよという間に、こちらがどんな技をかけられているか把握する前に次々に技が応用されて気付けば地面に転がっている、といったものだ。

その境地に近づきたい……天衣無縫の境地に……。

そう思っていたところ、その糸口が稽古に姿を現した。つい一昨日のことである。


一昨日は、かなり実験的な稽古方法をした。まずはナイフを使った推手だ。

推手とは目をつむることで触覚を鋭敏にさせた上で、相手と手と手を接触させることで力の流れを感じて相手の力の方向を逸らしたり、返したりするという稽古だ。
太極拳推手

普通は手でやるものだから安全なのだが、皮膚と違って摩擦を感じにくいナイフをお互いに接触させて力の方向を読むというのだから心が休まらない。精神が疲弊した。

ナイフ推手が終わって次に、ナイフを持って襲ってくる相手の攻撃を捌いて制圧するという訓練をした。自分が得意とする角度、苦手とする角度がよく分かる。例えば、僕から見て右から振ってくる攻撃にはよく反応できるのだが、捻り気味に右ストレートのように突かれると弱かった。相手のナイフの角度に集中して反撃しつづけた。やはり疲れる。

さらには、ナイフを持って二人がかりで突いてくる。対多人数の基本である「集団の間に入らないこと」を意識してなるべく実践しようとした。二人の間に入らず、なるべく外に回る。すると、敵同士が邪魔となるため僕が相手するのは一人だけで済む。
武術には、片腕だけで相手を翻弄する技もあるため一瞬だけなら相手の間に入っていい。そう油断していたら、僕の片手では処理できない角度からナイフが奔った。寸止めされるが、かなり危なかった。視界を広くとって油断なく相手との位置取りを探す。その中で、一方向に回っていると、相手をしていないもう一方の相手に先を読まれて回り込まれることに気付いた。一つの相手を制圧しながら、もう一方が来る方向を見定めて歩法で方向転換をする。これも疲れた。

さて、ナイフを置いて素手で相手がかかってきた。疲れてボーッとしながら動くと、なんだかすんなりと反撃ができた。不思議と何も考えない方が上手い返しができる。ベストとまではいわないけれど、ベターなくらい。

「てきとーです」

以前に、師範がよくそう言いながら相手をしてくれたことを思い出した。そうか、てきとーがいいのか……。

そう思うことで二人相手が素手でかかってくるときも余裕をもって対処できた。考えながらやっていたときには詰まって出て来なかった合気道の技や八卦掌の歩法がスルスル出てきた。相手に挟まれているときに、一方の相手の脇を潜るようにするとちょうどその身体がもう一方の攻撃を遮った。あまり意識しなくとも効果的な技が掘り起こされて面白い。
合気道と八卦掌はやはり、対多人数でこそ映えるのだなあと実感した。

稽古が終わった後の食事で、久々にお越しになった講師の方と話した。たまに稽古に来てくださる方で僕が手も足も出ないくらいに非常に強い人だ(こういうとあまり強そうに聞こえないから表現に困る)。今回の実験的な稽古法の発案者である。

「一人稽古のときには色々意識できるのですが、相手を目の前にするとぶっ飛んでしまいます」

前回の記事で書いた「全身から気を出す」ことだって意識できたのは最初の数分だけで、すぐにフィーリングになってしまった。

「まあそうなるよね」

あっけからんと講師の方が言った。少し拍子抜けした。

「相手が格下なら意識する余裕はあるけど、強い人を相手にするとそうはいかないよ。今回みたいにナイフを持ってたり、複数人だったりしたら、もっとわけがわからなくなる」

そこで、前に講師の方が言っていた、「一人稽古のときでも複数人を相手するときに同じ意識でいられるように無心になる」という言葉を思い出した。なるほど、一人稽古のときにもわけがわからないまま動くことを訓練するのか。

と、ここで、先日のたいしょーさん(諏訪研の先輩)のラップについて院生の方が質問したときを連想した。たいしょーさんが、立っている人の全てを把握しているわけではないと言ったときだ。

「良いパフォーマンスをするというと、広い視野で意識がクリアな状態だと一般的に思ってしまうんだけど、たいしょーの視野は意外と狭いんだね」

あの日のたいしょーさんは調子が良かったそうだけど、わけがわからない状態でもあったんだろう。となると、引き出し自在の境地に立つには「わけわからない」のがキーポイントなんだな。

そう考えると、気持ちが楽になった。稽古では、普段意識していた歩法が自然と出ていたし、練度の高い技が出てきていた。「わけわからない」「てきとー」でも、意外となんとかなるのだ。自分の積み重ねを信じれば本番でも意外と累積が反映される。なかなかロマンチックな話ではないか。

また、一つの仮説が出来た。歩きが無意識に繫がるというものだ。普段の稽古では、一つの型を終わったときに立ち止まるが、今回は立ち止まらずに歩きながら攻防を行った。そのことが技の呼び水になったということは考えられることである。今後の一人稽古の課題になるはずだ。

2014年11月1日土曜日

「込める」「消す」「抜く」「出す」。力と気を扱う意識の変遷

武術という世界は何をもたらすか。

……now exploring……


「私は未だに疑問に思うよ。この正拳の握り方が正しいのか、いつも考えている」

1200万人の会員数を誇った世界最大の空手団体、極真を創始した大山倍達が晩年まで言い続けていた言葉である。大山総裁の終わりない向上心の一端を示す言葉であると同時に、たかが拳、と思考をやめることができない拳の深さが垣間見える言葉である。

さて、拳をぐっと握ったとき、拳に入れた力はどこに行くのかを考えてみたい。

どこにも行かない。これが僕の現時点での主張である。

拳に力を込めたところで、その力の行き先は拳の中心である。だから、いくら込めても横から見て力は指を伝って螺旋を描き、拳の中で相殺されて消えてしまう。

前の記事(漫然とした日常を武術が食う)で宣言したように、武術は老人でも使えなければならない。老人には、力を込めるだけ込めて自家中毒させるなどという余裕はない。持てる力の全てを出し切って、効率的に作用させなければならない。
力を自分の身体という箱に押し込めるのではなく、外に解放するという視点について改めて最近考えさせられた。

先日の身体班でしたパフォーマンスにも関係がある。筋トレをして筋肉隆々な班員に腕を掴んでもらってそれを振り払うという余技をした。僕は筋肉を鍛えたことがほとんどないため、他の班員と比べれば枯れ木のような腕をしている。

まず僕が拳を握って、筋肉を強ばらせて力任せに振り払おうとした。動かない。腕の太さが一回りも違うのだ。致し方ない。次に、力を抜いて全身をうねらせるようにして握られている部分に丹田の力を伝えた。すると、振り払うことができるのだ。

同じようなパフォーマンスは合気道なり太極拳なり、非常に多く存在する。正直にいって、このパフォーマンスがそのまま武術の実用性の証拠になるわけではない。必要条件であっても十分条件ではない。原理さえ知ってしまえば武術を深くやっていなくともできてしまう宴会芸だ。だから、インチキめいた自称武術家に利用されることが多い。


そのことを思い出し憎々しく思っていたときのことである。僕は最近気付いた丹田の膨張感覚の一つを利用していた。美容院で髪を切られている間が暇だったのだ。
丹田といったときには、一般的に下丹田のことを指す。
http://ja.wikipedia.org/wiki/丹田
だいたい、骨盤からヘソにかけて腹部の中にボールが収まっていると想像していただければよい。

下丹田を動かす際には、どういう箇所に注目してどういう意識で動かすか、様々な入力変数が考えられて方法は人によって千差万別である。僕でも十数種類はストックしている。

そのときには、僕は丹田が動いている感覚を意識していた。僕の丹田についての気づきとして、仙腸関節をゴリゴリ動かしているときに「ヘソから地面へ引いた垂線とベルトのラインとの交点(以下、ヘソベルト交点)」から膨張感覚が始まっていることがある。
最近はそのヘソベルト交点を意識して下丹田を扱っていた。すると、かなり調子がよくなったのだが、以前からあった疑問は解決できなかった。

それは、「丹田や腹圧を膨張させるときに圧縮をかけているときに脱力はできるのか」という疑問である。
以前に身体班でも話し合ったことだが、腹圧をかけるときにはどうしても腹周りに力を込めて緊張させなければならない。かねてからお話してるように、僕の流派では力を入れないことを流儀にしているから筋肉を緊張させることは避けたい。

実際、今までも調子よく丹田を膨張させたところで腹周りを脱力させるに伴って膨張感覚も消え失せてしまっている。
この人物は、世界最高クラスの下丹田の持ち主であるミカエル・リャブコ氏である。氏は自身の流派であるシステマにおいて、会員に対して常にリラックスをするよう説いている。

「力まずにリラックスすればするほど腹圧が上がれば最高だよな」

この写真を見ながら、身体班の班員と談笑したことを覚えている。このことがヒントとなった。

「力を込める反対は力を抜くことなんじゃないか」

脱力というと、なんだか身体の中で力を消そうとしてしまうが、本当は力を身体の外に追い出すことなんじゃないか。身体の中の視点だと、力を抜くことになるが、身体の外から見ると、これは力を出すことになる。
力を身体の中から出す、という新たな視点の獲得であった。

試しに、丹田の中から外に力、具体的には気を出すイメージをしてみた。脱力しながら、力を外に出す。筋肉にほとんど緊張を感じられないのに下丹田が膨らんでいくのを感じる。

家に帰って動いてみると恐ろしく調子が良かった。さらに、前に発見した「球を回しながらシルクで磨く感覚」を用いた。外に出した気をシルクに見立てて下丹田を拭った。上手くいきすぎて気持ちが悪いくらいだった。

以来、脱力をかねて力と気を外に出す感覚を日常で使うと面白い発見があった。

全身から力を出す感覚を掴んだときのことである。
混雑した朝のホームを歩いていた。人波の中を歩いていた。何か、いつもと感覚が違っていることに気付いた。おそろしく気分が安定しているのだ。

いつも、雑踏の中にいるときには人にぶつからないようあくせく周囲の流れを伺わなくてはならないのに……。

不思議に思って景色を観察していると自分の動きに法則があることに気付いた。自分が出した気に他人が触れないときはまっすぐ歩き、触れるやいなや少し身体を動かして他人にギリギリ接触しない間隔を保っていたのだ。特に注意していなくとも自動的に距離を保っていたから、見知らぬ人に接触するというストレスを感じず、それが気分の安定に繫がったのだろう。

多分、であるが、出した気が「自分の身体の範囲を延長している」という感覚がある。親しみやすくいうと、「自分の範囲だ。安心できる範囲だ」という感覚だ。武器を使うときに気を纏わせると、自分の体の延長に武器があるという実感があってよく手に馴染む。それに、相手を拳で突くときに今までは相手の背面に向けて拳を突き抜くというイメージで突いていたが、今では相手の背後にまで気を通す、という意識で突くと体重がよく乗ってくれる。

それと、大学に入ってからの不調が改善された。大学に入るまでは身体が崩れにくかったのだが、大学で合気道の受けを取るうちに「相手の攻撃に合わせて受け身を取る」という反復行為でパブロフの犬的に、相手に攻撃されたときについ重心が浮いてしまうという反射が付いてしまっていた。合気道をした弊害の一つであって、なかなかこの問題は解決しなかったのだが、近い間合いに入った相手が自分の範囲の中にいるような気がしてなかなか姿勢が崩れなくなった。それに伴い、ガンガン相手の間合いに切り込むことができるようになってきた。

「周囲は自分のもの」という意識は以前に幾度か試していたけれど、なかなか武術的にものにならなかった。少しの意識の変化で、以前に出来なかったことが出来るようになるのは快感である。もっと、範囲を広げられないかなあ……。

11/1 ダンスにおける、音と体の意識

はじめまして、新しく身体班に所属しました山崎一臣です。深爪したこと書く勢いで、早速綴ります。

音と体の意識。
私はストリートダンスバトルに出ることが多い。ダンスバトルはショーケースと違い、その場限りの、その瞬間にしかない個性が映し出される。また、ダンスバトルは観客層、会場の広さ、審査員、出場人数、曲など、影響される要素が多い。例えば、軽快な音楽が流れている中で、闘争心剥き出しながつがつダンスは映えない。曲の雰囲気に合った表現をすることが重要だ。


この点で、上級者とそうでないダンサーとの大きな違いがある。
それは「音を聞く」ことである。


自分も含め、初心者のダンサーがよくやってしまいがちなのが、曲を聴かずに自分の踊れるフリを踊ってしまうことだ。曲を聴いていないため、曲調を良く表現することができない。そういった動きからは平凡な印象を受けてしまう。また、一見自分の踊りで表現しているように見えるが実は違う。ただ踊らされているに等しい。極端に言えばダンスバトルの土俵に上がり、踊らざるを得ないから、踊る。こうした踊りは個性を映し出さず、受け売りな表現になり、説得力に欠ける。


上級者は違う。曲を主体的にデザインする。私が上級者の着眼点を正確に見出すことは不可能だが、上級者は明らかに曲のリズムや、音の違いを繊細に知覚することができる。
リズム音の一つが、ドンッという太くて強い音か、パンッという少し細めの音か、一つの音でも違いを見分ける。

こうした違いを見分け、それに合った身体表現をするからこそ、一つ一つの動きに説得力が生まれる。

初心者の中でも、この違いは大きく勝敗を左右する。
初心者でも、ある程度音を聞ける人は、スキルが高い低いに関わらず、曲全体を通して伝わるものがある。

スキルや動きのレパートリーを充実させることは大切であるが、それらを最大限に魅せるためには、音を聞く感性も磨かなければいけない。技術だけでは、魅せれない。
ダンスの面白味を感じるところだ。

2014年10月27日月曜日

「世界」に遊ぶ。無限の側面に遊ぶ

世界は決して僕を、ひいてはあなたを飽きさせることはない。今回、最初は少し武術から離れたところから始めますが、最後には武術に立ち返るのでご心配なく。

常々、「世界を作り、そこに人を引き込むことに没頭している」と触れ回っているよーりがその思考に至るための起源を解き明かします。

なぜ、Yoriの前にWorldを付けるほど「世界」を重視するのか。その理由を本邦初公開。必見です。

……now being absorbed……

「作った世界に人を引き込む」と僕が意気込むようになったきっかけは幼少の頃にある。引き込もうとするのは、僕自身が幼少の時期に「世界」に引き込まれたことが端緒だ。

それは、いつだったろう。少なくとも武術との出会いよりも前だ。武術の必要性に駆られた最初は小学3年生だったが、本物の武術を探究するようになった時はずっと後だったから。

そう、出会いというなら本という「世界」が先だった。確か、小学3年生の時分だったはずだ。今年で僕が22歳になるのだから、13年前ということになる。人生の半分以上前だ。この記憶には薄く霞がかかっている。

それでも、霞がかかっていても、この記憶は死ぬまで覚えているだろう。それほど僕の根幹が生まれた出来事だから。

どこかのデパートに両親に僕が連れられてきたところからその記憶は始まる。

特に僕が買い物をするわけではないからその頃はデパートというと、玩具屋に行って新製品を見物でもしない限りは暇で憂鬱だった。退屈のねっとりとした緩慢さをありありと思い出せる。

それでも、子供の身分として親から離れることは、ロッククライミングで命綱が切れることくらい等価値であった。親が視界から消えることは即ち自分の迷子を意味する。迷子は、「自分は家に帰れるのかしら、誘拐されないかしら」と多大な不安をもたらすので当時の自分は不得手にしていた。

エスカレーターからの景色の中の何かに目を惹かれたのか、階を上がるべく踊り場でターンするはずの父親が突然、方向を変えずに直進した。降り立つ予定のない階の地を踏みしめた。父が興味を向けるからといって僕も同種の興味を持つ道理はない。

しかし、大して食指が動かなくとも前述の理由でオリマーが育てたピクミンの如く後を追う必要があった。必然として僕も連れ立つことになってしまった。父はエレベーターの傍に位置する書店にずんずん近寄っていった。

今と違い、当時は一般に普及していなかったPCについての雑誌コーナーに立ち寄って品定めしていた。特にめぼしいものがなかったのかグルグルと書店の中の回游を始めた。当然、僕もグルグルと付いて回った。

今思えば、金魚の糞以外の何者でもなかった。

オリマーの真似事に飽きたのか。書店の出口近く、つまり、デパート内の通路に面し、新刊本が鬱蒼と平積みされた机に父は立ち止まった。一目して、ある一つの本を手に取った。おそらく、最も目立つものを無造作に選んだに違いなかった。

「これなんかお前に良いんじゃないか」

厚い本だった。今考えると、厚い本を読破する経験をしてほしかったのかもしれないが、当時の自分には鈍器、恐怖の対象の他に移らなかった。同じファンタジージャンルであるハリーポッターよりも数段厚い。

その名は「崖の国物語」。絵は、子供が慣れて親しいアニメ調でなかった。自分では震えて引けないだろう繊細な線が木の年輪のように細かくうねって重厚な絵をなして表紙を飾っていた。

その見慣れない絵の雰囲気にどこか「ガイコク」を感じていた。
一旦意見を決めると強引な気質の父は、僕の意見を聞かずにこの本をさっさと買って僕に与えた。その日、帰宅して早速読むか、という気持ちにはならなかった。

自分で選択したものではない、親といえど人から与えられたものを素直に易々と、率先して読むことを僕の幼い矜持が許さなかった。

家の本棚の隅の暗がりに放置して数ヶ月が経った。学校から帰ってするゲームもなく(周囲がゲームボーイアドバンスで遊ぶ中、僕の持つ携帯ゲーム機はモノクロのみを映す初代ゲームボーイが唯一だったため、友達と対戦に興じるために腕を上げるなどというモチベーションがなかった)、手持ち無沙汰になってしまった。

そこで、家の探索をすると以前に買ってもらった崖の国物語を再発見した。そこで「自発的に」その本を読むと、選択し直したのだ。

他者から強制という頸木(くびき)から外れて自由気ままに読みふけった。その結果、引き込まれに引き込まれた。自由が過ぎて肉体から自分が物語に入り込んだ。主人公、トウィッグに自分が乗り移ったようだった。

深森に迷ったときには僕も不安になり、その中で不思議な生物に出会ったときには好奇心と恐怖心が煽られた。初めて本で感泣したのもこのときだっけ。森の中で出来た初めての心優しき友達、オオハグレグマと死別したときの悲しみは心の深いところに未だ残っている。

読み終えて放心する日々が続いた。何度も読み返しては放心した。小学校の帰り道で続編を見つけたときは帰宅してから母親に必死に小遣いを求めた。そうして、買って読み込んだ。初巻の舞台からさらに巨大に広がった世界にまた放心した。想像の中で別の世界の広がりを追っていた。

「世界」に飛び込むことが麻薬的に楽しいと僕に刷り込んだのはこの原体験だ。その魅力に病みつきになってしまい、その2001年の末に映画化されると評判になった「ハリー・ポッター」に手を出して面白さを再確認したのだった。

そして、目についた本を両親に買ってくれとねだる困った子供になった。ハリー・ポッターの次はダレン・シャンだったか。

小学校高学年になって受験勉強が始まっても、楽しみは続いた。続いたというと現状維持に聞こえるが、お小遣いを定期的にもらえるようになって密かに買い込んだため読む量は日増ししていった。行為の秘めやかさ、後ろ暗さがますます人間を趣味の虜にすることはあなたもご存知の通りだ。

僕だって例外でなかった。塾の宿題を済ますはずの夜の時間に自分の部屋で本を取り出し、舐めるように文字を追った。ただし、世界に没頭しても僅かに周囲を警戒する余裕は残しておいた。部屋の入り口に迫る足音を機敏に察知するためだ。その巡回の音がいよいよ差し迫ってきたなら、ドアノブが軋むと同時に本を一瞬にして教科書の下敷きにし、何食わぬ顔をするためだ。

不良小学生がそこにはいた。勉強机の表面に散らかる消しゴムの粕の分布が濃くなっていないことからこの悪行三昧を看破されて怒られることもしばしばだった。

これが、僕の「世界」との最初の出会いだ。ちょっと小休止。

……now loading……

小学生のとき、本を読んで終わりにするのではなく自分があの世界に入ったらどうするだろう、完結したこの作品の続きはどうなるのだろう、と物語を空想することも趣味だった。文字を手書きする速度が極めて遅かったため、その空想は書き留められることがなく発散されてはすぐに忘れ去られた。

空想を書き留める、というパラダイムはアナログからデジタルに移行してやっとなされた。

書き留める手段はPCではなかった。ブラインドタッチが出来なかった当時の僕にとって、父の部屋に蹲居したデスクトップのキーボードはピアノの鍵盤と同じく未知の羅列であったからだ。

携帯電話のアクセス制限が中学生で解除されて、携帯小説サイトを閲覧できるようになった。僕は三列かける四列のボタンの上で必死に親指を往復させることで拙い文章を綴った。そうして作った携帯小説なるものをそのサイトに投稿することにすぐ夢中になった。

今読み返せば赤面ものの出来だったが、これが空想の書き留めの始まりだった。

基本的に自分ならではの発想が貧困だったので、オリジナルの小説をついぞ書くことはなかった(それの決行は大学になってやっとなされたが)。自分で試しに書き殴ったオリジナル小説の世界が、僕が愛した過去の本と比してあまりにも浅薄、薄弱、矮小すぎたからだ。書いている間は楽しかったが、翌日、興奮から醒めて目にすると読むに耐えないものだと分かってしまった。得意顔になって投稿した「自分の世界」に他人が辛いコメントを付ける姿を想像して恐怖に震える手で全て削除した。

だから、当時の僕が書くとすればそれは全て二次創作だった。二次創作とは、オリジナルの作品、つまり、一次に創作されたものの世界観を延長して書くことだ。文章ではなく漫画であるが、有名な二次創作品を例となると「ドラえもんの最終回」が思い浮かぶ。
【同人】ドラえもんの最終会

二次創作の何が面白いかと言うと、どこまでやっていいかが分かることだ。換言すると、「その世界の果て」や「世界の構造」が分かる。かつて、福田研の有志で刊行されていた雑誌「モンスーン」に「ジョジョの奇妙な冒険」で高名な漫画家、荒木飛呂彦が語った運命論が近いと大変共感したので引用する。

「(インタビュー当時執筆していた漫画には)『やっぱり人間って運命にしばられてるのかな』ってのがあるんです。マンガを描いてるとわかるんです。主人公を想定して、その主人公が新宿に来たとすると、その後どうするのかは一見無限の可能性があるように思いがちです。

でも主人公に動機づけとか性格とかがあると、もう決まってくるんです。たとえば東京駅に敵が居たり、愛する人が居たりすれば、主人公はわしが考えるまでもなく、もうそこに行くしかない。そうすると『あ、運命ってあるんだな』って創作してると分かるんです。」

二次創作を書いているときには、この「運命」というものを強く感じる。ただ読んでいるだけでは分からなかったが、書いてみると登場人物たちがどんな変数を備えているか、また着目しているかを考えなくては勤まらなくなった。

なぜなら、把握しない限りは、自分が書きたい展開通りに人物が動かないのだ。「運命」が邪魔をしてくる。それにどこまで把握すれば安心か分からない。ある人物が人物Aといるときと人物Bといるときで性格の側面が柔軟に変化して無限にも思える様相を見せてくるのだ。

分人主義に近いかもしれない。その側面を発揮する環境である「世界」の中の変数を上手く整えることでやっと書きたい方向に進める。把握の深度を追究しつづけなければ完結しない一大作業なのである。まあ、大変だろうと、そうやって書いた作品に人が引き込まれてくれることが承認欲求の点で無上の喜びとなるために、ついつい続けてしまうのだが。

借り物の「世界」ではあるが、「世界に人を引き込む」楽しさに味を占めることとなった。この体験が今の僕の活動の根っこにあるのだ。

さて、「世界」の変数を把握する方法について語る。僕の方法は、
①同じ作品について稚拙だろうと我慢して繰り返し書くことと、
②その作品の他の二次創作を読むこと、そして、
③その上で一次作品を何度も読む込むことだった。

非常な遅筆だったので、1対49対50の割合だったろうか。
①をすると、自分の作品で不足している領域をハッキリと自覚できる。
②は、他者がどうやって「世界」を整えて人物を誘導しているかの参考になる。二つを繰り返しながら
③をすると、元の世界の理解が深まると同時に自分の創作がそこから外れていないかという確認が取れる。

このサイクルの中で「世界」の空気が身に染みていった。結果として、その物語の「世界」に慣れ親しんだ思考で別の物事を書こうとすると、二次創作を書こうとしたわけではないのに全てがその作品に関連したものになってしまうのだ。

……now loading……

時は現在に帰る。ある「世界」に遊ぶとその思考に染められて、行動も自然とそこから波及したものになってしまうことは今、言及した通りだ。この方法は僕にとって、ある体系化された分野を学ぶためパタンランゲージとして今なお最大のものである。

例えば、諏訪研での学びもそうだ。SFCに入学して初めて受けた先生の授業である身体科学を受けたときには研究内容がまさかこんなに深い体系だとは思いも寄らなかった。

しかし、続けて先生の他の授業を取り、研究会に入って学びを続ける内に、重要概念同士にリンクが飛び交うようになる。すると、段々と明度が上がって全貌が見えてきた。どこまでいったら全貌といっていいのかは分からないが……。
諏訪研の「学んで実践し議論し……」というプロセスサイクルがよく僕のパタンに合っているのも一つの理由だろう。研究会で学んだことをグループワークで議論し、他のグループで上手いと思った解釈からも諏訪研が大事にする変数を読み取る。受け取った変数をプロジェクトに応用して学びのサイクルがさらに回る。

そうして、諏訪研という「世界」が身に付いていった。他にもある思考のベースに融合する。僕が思う「世界」から諏訪研を汎化させて語っていることが融合の証左だ。

研究会内での発言も、「これは諏訪研的に面白いはずだから言ってもよかろう」と徐々に自信が付いてきて際どいことが口から飛び出してきた。諏訪研に親しんだことで自ずと諏訪研的な行動をしていることに気付くこともしばしばだ。

さて、武術は「世界」に一層相性が良い。やっと本題に入れた。糖分が足りないのでチョコを装填します。

……now eating chocolates……

一般的に、格闘技や武道で「優れた身体」というと、プロの世界でもない限り、かなりハード寄りの発言だと認識されるのではないだろうか。マラソンなら遅筋の割合が多くほっそりとして肺活量がある。短距離なら、速筋があり柔軟性が高い。もちろん、優れた身体も競技ごとに差異があるだろう。

しかし、良い身体の意識といった、ソフトとしての身体が競技ごとに明確に声高に叫ばれることはあまりない。あっても野球で「キレのある身体」と聞いたくらいだ。

武術にはソフトしての「優れた身体」の要求が厳然としてある。
図は太極拳の基本姿勢についてである。球を含めるように胸を丸め、背中の力を抜いて張るのが含胸抜背。尾てい骨を真っすぐ下に垂らして姿勢を正すのが尾ろ中正である。この他にも姿勢で守るべき条件は軽く十を超える。

ちょっとした動作でもその条件の一つ一つをクリアすることを堅苦しく思うかもしれない、学ぶのに地味で面白みのない姿勢を飛ばして動きがあって楽しい型や技を学びたいと思うかもしれない。

だが、この基本を抜かすと後に学ぶ型といった技術は全て徒労に終わる。太極拳は姿勢という入り口から既に実戦でどのような戦術を使って自分を守るというゴールへの道を見据えているのだ。

太極拳での「優れた身体」とは、「脱力した上で真っすぐ安定して、いつでも勁(筋肉が単体で生み出すものでなく、正しい姿勢から生み出される力)を丹田で生んで身体のどの箇所からでも発することができる身体」である。この姿勢が太極拳の優れた戦術を発揮する。

「相手の攻撃に身体を接触させることで相手の体内の力みを感じて打つ」のが戦術だ。自分は脱力していることで接触点から自分の力み、即ち予備動作を読ませない。パンチといった一般的な打撃だとテイクバックや相手との距離が必要である。テイクバックでタメを作ってから、相手との距離を通して拳といった打撃に使う箇所を加速させる。

だから、相手との身体に接触してしまうことで距離を零にして、相手にテイクバックをさせる余裕を与えず攻撃を断つ。もちろん、相手が攻撃できずこちらもできないとなれば膠着してしまう。

だから、「いつでも勁を生み出せる」必要がある。太極拳を学べば、零距離から即打撃を発することができる。つまり、接触さえしてしまえは勝ったようなものである。

この戦術の根本となるのが、「脱力した上で真っすぐ安定して、いつでも勁を丹田で生んで身体のどの箇所からでも発することができる身体」である。この「優れた身体」の感覚を養う手段が先述の姿勢の要件であった。安定した姿勢を培うことで、安定して長く勁を発して相手の内部にしっかり浸透させる砲台になりうるのだ。

先日の身体班で実演したが、力みのない身体から力が発せられると接触点からいきなり強い力の波が出てきたようになって非常に混乱するものになる。

逆説すれば、各流派で唱えられる「優れた身体」を用いると必然的にその流派の戦術を使うことになる。先の「世界」の考えと非常に似ている。太極拳で優れた身体を身につければ、振る舞いが全て太極拳になってしまう。太極拳の「世界」が身に沁みるのだ。先日、祖母の家に行ったときに荷物運びを手伝ったところ、祖母にこう言われた。

「まるで、踊りのようねえ」

僕が荷物を運ぶ動作を踊りと称されたのだ。太極拳の安定した身体を身につけて動いたためにその様子が流れるようになった。そのためにこう言われたのだと勝手ながら認識している。特に太極拳的に動こうとしてはいないのに、太極拳になるという根拠ではないか。

僕の師匠はweb上で10年近くもブログを書いている。膨大な分量があるわけだけれど、僕は今、それを読むこと二周している。思考に自然と流派の考えが沁み込んだ。おかげで流派でする稽古に本質的な意味付けをできる。

その上で稽古に励むと実践と気づきのサイクルが累積的に回転を上げて唸りを上げる。すると、ブログを読むだけではなされなかった気づきが生まれる。つまり、流派という「世界」に埋没していく。無限に世界で戯れることができる。

これが、本記事で僕が最も言いたいことだ。「世界で遊ぶ間は無限に楽しむことができる」。これは、文章、研究、武術から帰納することができるし、ほとんど全ての分野に敷衍することができる考えなのではなかろうか。

こうしたバックグラウンドで僕が生きているという前提を語らないと、ブログで言える主張に限界ができるのではないかと思って書いた次第である。生き方の問題でもあるので長文になってしまうのは容赦願いたい。

文章と「世界」の親和性はもはや言うまでもないが、僕が武術から抜け出せないのはそこが極めて「深くて広い世界」だからである。トウィッグが深森に入ってしまった心持ちだ。好奇心と恐怖心、そして感動の連続なのである。

最後に武術が如何に「世界」の考えと親しいかを残して終わりにする。

太極拳の例で一つ一つの流派に「世界」が漲っていることは説明した。それぞれの流派世界があり、修業者はそれらを探索している。それはいいのだが、自分の流派の中にだけ視線を落として思考のフレームを広げないものが多くて困る。別に修業者は同門の中で戦うことを本義にしていない。自流の大会で上位になることのみを考えてはいけない。流派が戦うものは他派なのだ。武術を学ぶものは自流だけでなく他派の研究をするのが自然である。

つまり、他の「世界」を研究することになる。太極拳の例で出したように、如何に相手の流派の「世界」の真価を殺して、自分の「世界」を活かしその土俵に引き込まなければ勝てないのだ。

「武術は実戦性を示すために格闘技のリングに上がるべきだ」

という主張をされても、現代の達人たちがリングに上がらないのはこういうわけだ。

「どうしてわざわざ相手に都合の良いルールで保護した土俵であるリングに上がらなければいけないのか。そんなことをすれば、必ず負ける」

これが答えである。自分の流派という「世界」に埋没してその把握に努めながら他派という「世界」から相手を引きずり込むことを虎視眈々と狙うのが武術修業である。「世界」から武術をこう語ることが出来るだろう。自分の「世界」だけでなく無限とも思われる他の「世界」をも把握しようとするから、武術という「世界」は広大なのだ。

2014年10月26日日曜日

ケガ中の模索・・・⑥


4日ほど前の水曜日に、久しぶりに(肉離れ以来初)、200mと300mという距離をある程度スピードを出して走ってみた。冷たく強い雨が降る中であった。200mはカーブでのスタートとなる。最初の50mくらいをぐいぐい加速していったら、少し左ハムストリングス(肉離れした箇所)がぴくっと動きかけた感じがしたので、そこで加速をやめた。そのスピードで200mを走りきった。左に曲がるカーブを走ると左ハムにくるのだ。そんな考えてみれば当たり前のことに気付いた。さらにそれが加速区間だともっと左ハムにくる。200は今はやってはいけない距離だなと思った。
しかしそのあと、もう少し走っておきたいと思ったので300mを一本走った。300mは直線・カーブ・直線という形で100m区間ずつ走ることになるため、最初の加速区間は直線である。なので、200mのときより少し速いスピードで走ってみた。すると、気持ちよく300を走ることができた。
 
しかし、問題は次の日であった。300mというメニューを久しぶりにやれば、やはり筋肉痛はくる。それは想定できたことだが、まさか肉離れの箇所があそこまでイヤな感じの痛みがあるとは思わなかった。肉離れの箇所はほかの部位と違った痛みがあった。奥の方が筋張っていて、その状態で同じように走るとぶちっといってしまいそうな怖さである。「ケガがいい方向にむかっていたのにまた悪化したのか。。」と落胆しかけたが、学生トレーナーにみてもらったところ、そういうことでもないらしい。しかし、一日走ると次の日は走れないということになり、完治するまではやはり思い通りの練習の2割程度しかできない。いつになったら完治するのかが待ち遠しいばかりだ。その日は実は、ウォーミングアップをしっかりしたら以外と、まあまあなスピードでは走ることはできた。しかし無理はせずに終えた。
 その次の日はオフであったが、さらに痛みは増した。びっくりした。今度こそ悪化してしまったのか。。と落胆した。歩くだけで、左ハムを少しでも使うと痛いという状況だった。とにかく休みに休んだ。すると、翌日はなんと痛みがかなり引いていたのである。左ハムの状態は水曜日の状態に近かった。この事実を経験してはじめて安心できた。こうやって治していってよいのだと。悪化はしていないということを知った。
 
 ケガの箇所の状態は良くても、全身が淡い筋肉痛だった。ケガをする前は、試合の週をのぞいて常に全身が淡い筋肉痛だったため、気にすることはなかった。が、今回は違った。ケガ中につくりあげてきた走りのフォームが全然思い通りにいかないのである。驚いた。ケガ中に、毎日のようにストレッチをして身体がやわらかくなってきていたところに筋肉痛でかたくなっていて思ったより可動域がせばまっている状況というギャップも、驚いた原因だろう。以前はこれが常だったため、驚くこともフラストレーションを感じることもなかった。しかし、本当に今回は違ったのだった。
冬季は毎日過酷な練習を積む中で、必ず筋肉痛の中でやることになる。毎日の身体のケアをもっとしようと誓った。2週間に1回くらいのペースで温泉にいくのもいいなとも考えている。その前に2週間後に試合があるが、正直出られないと思う。残念だ。

ちなみに、上記の「ストレッチ」に関してだが、ひとつ今週気付いたことがある。お湯につかっているときは、ただつかるのではなく、全身の力を意識して抜いて、つかることが重要だと思い実践しはじめた。この部分は前回や前々回の身体班の語り合いで得られた発想だと自負している。
以上。
 

脱力しつづける

1024日(金)


また、ちゃんと書こう、ちゃんと書きたい、という気持ちばかりが先走って、最近ここにアップできずに日記がたまっていた。

深爪の話でもいいんだってば。
そう言い聞かせながら、今日も書く。


今日は、お風呂に入っていたときに気づいたことのお話。

力を抜くと、湯船の底のほうに置いていた自分の手が、ふ~っと水面に浮く。

この感覚が面白くて、小さい頃何度もやって遊んでいた。

今日も、惰性でそんなことをしていた。


水面に上がってきた手を見つめながら、自分の手ではないような感覚を楽しんでいると、なんだか急に、この手をずっと浮かせた状態にしてみたいな、という欲望が生まれた。

「ふわ~」と心のなかでつぶやきながら、手を浮かせたままにしようと頑張ってみる。
浮いてはいるけど、なんとなく腕に力が入っているような感覚。
自然に浮かせたくて、力を抜こうと意識しても、力が入っているような感覚になる。


もしかして…。


連続的に力を抜いた状態でいることって不可能なのかな。

踊るとき、力抜いて~!と言われることがあるけれど、ほんとに力抜くことができているのだろうか。


もうかれこれ一年以上前のことになるけれど、ミュージカルの稽古で歌の練習をしていたとき、「君はのどに力を入れてしまう癖があるから、歌う直前に、こぶしにぎゅっとちからを入れて、2秒間そのままキープして、一気に脱力する、というのをやったほうがいいよ」と言われたことがある。

過緊張というものらしい。

そういえば、先日の身体班のミーティングで「力を抜く」という話題になったとき、ようりがこんなことを言っていた。

過緊張させたとき、こぶしの力を一気に抜くと同時に、しゃがんだほうがいいよ。

なるほど。実際にやってみると、立ち上がったときに、脱力感がより強く感じられた。
きっと、しゃがまずに力を緩めるだけだと、力が抜けるのは上半身だけで、腰から下の脱力にはつながっていなかったのだろう。


脱力かあ。
前にもこのキーワードが意識にのぼってきたことがあったけれど、なんとなく、いつも以上に、この子が自分の踊りの救世主になってくれるような気がする。
また何かあったときにすぐにここにつなげられるように、この子はあっためておこう。


Koseki


バレエの稽古メモ「こまったときの腹筋頼み」

108日(水)

*バレエの稽古メモ*
パッセのとき、目線が低すぎる気がする。もっと遠くを見ないとバランスがとれないはず。
のけぞらない。前に出た肋骨を、からだの前側にある空気の上に、ぷか~と浮かせてみる。まるで水に浮くかのように。
パッセ上げるほうの脚の側の腹筋を、きゅっと内側にえぐる。


腹筋の使い方が、だんだんわかってきた気がする。
なにかできなくなったときに、じゃあ腹筋を意識してみよう、ととりあえずでも腹筋にアプローチできるようになった。腹筋を使う、というのは踊りのなかでしっかりイメージできたことがなかったから、最近それができるようになりつつあって嬉しい。

Koseki

2014年10月23日木曜日

相手の可能性を殺す。武術で大切な三つの「先」について

武術は死活を根源にする。よーり、活きてます。

……now reviving……

いつも僕は対の先で行動を起こしていたが、後の先を意識するようになるきっかけがあった。……はい、まず先について説明しないといけませんね。


日本語には「後手後手」「後手に回る」という言葉がある。

ご存知の通り、この表現は主に悪い意味で使われる。相手が何か行動を起こしてからそれに気付いて対処を考えるのは遅い。特に武術ではまさに死活問題になる。相手の攻撃が始まったという事実にコンマ数秒後に気付いたときには対処が間に合わず、当てられてしまうからだ。

もちろん、その攻撃が素手であってなおかつ急所から外れれば、体で受けてから反撃が可能かもしれない。筋肉の鎧があればなおさら可能性が高まる。しかし、相手が真剣といった武器を持ったならどうだ。後手に回れば、急所に当てられないどころか幸運にも咄嗟に素手でガードが出来たとしても致命傷を負ってしまうかもしれない。

だから、武術は必死にどうにか相手から攻撃の予兆を感じ取って、その「先」手を取ろうと探究してきた。

その中でも、日本武術による探究は目覚ましい。おそらく、日本武術は世界最高級の切れ味、殺傷性を持つ日本刀に対して護身をしたからだ。素手で受ければ切り裂かれてしまう。

だから、最高の回避をして先手を取ることに集中した。そこで、日本武術は3つの「先」を見つけ出した。武術の教養として、まずその3つについて説明する。出典によって多少意味が変わってしまうが、概ね以下の意味である。

先の先:相手が攻撃する前に思う「攻撃しよう」という気持ちを察して、攻撃に行動を移す間隙を衝いてこちらから攻撃する。

相手の脳波を察知して攻撃を仕掛けるのだ……という人もいるが、僕はそれに懐疑的なのでもっと物質的な方法を使う。ベンジャミン・リベットという学者が1970年代にした実験で人間の意識と行動の関係が驚くべきことだと分かった。その実験結果は「人間はこうしよう、と思った0.5秒前にその行動に向けて身体が準備を始めている」というものだ。

意志が行動を生むという常識とは反対の結果である。これを元にして考えれば、相手の攻撃しようという思いの前になされている身体の準備を読んでこちらから仕掛ければ先手を取ることができるだろう。

しかし、起こりは起こりでも微小なものであるため、僕がそれを読めることは稀。成功すると、「手も足も出ない」「反応できない」という感想を持つ(というか成功されたときに僕がそう思った)。

「…来た!」の「…」を読んで「k」の間に合わせる。

対の先:相手の起こりを読んで、攻撃する。

相手と自分で動くタイミングは同時になる。先の先よりも起こりが大きくなったときを見定めるので分かりやすい。ジャンケンで言うなら、相手が振り出す手を見てから速攻でこちらが有利になる手を出して結果、同時出しして勝つことに相当する。

例えば、相手が右ストレートを出すと分かったならこちらはそのストレートが描くだろう軌跡に重なるように空手の捻り突きを出す。こちらの捻りが相手の腕を逸らすのでこちらの攻撃が一方的に当たる。

「…来た!」の「k」を読んで「た」に合わせる。

後の先:相手の起こりを読むのは上の二つと変わりない。起こりを読んだ上で相手の攻撃を躱す。そうして入った相手の死角から攻撃する。

「…来た!」の「k」を読んで「た」で躱しながら「!」で死角から攻撃する。

対立している侍同士が戦ったとき、刀を振りかぶった侍に対して一方が歩いてすれ違った瞬間にもう一方が倒れていた、というよくあるエピソードはこれだと思われる。


先についての説明が長くなった。

対素手のとき、僕はいつも対の先のタイミングで動くことでカウンターをそれなりに上手く取っていた。しかし、先日の稽古で対日本刀での無刀取りをしたときにはそれが仇となった。

相手が刀を正眼に構えて切っ先をこちらの顔面に突きつけてくる。

おいそれと踏み込むことが出来ない。相手までの間が遠い。

ふっと、何となく相手の構えの圧力がなくなった代わりに勢いのある透明な圧を感じた。

打ち気だ。それに反応すると同時に斜め前に、ぬすりと進んだ。

少し遅れて自分がさっきまでいたところを刀が切る。振り下ろされた刀の柄に手をかけててこの原理で刀を奪って先端を相手の腕につける。

後退した。型の終わりだ、と安心したところ、それを見ていた師範に注意を受けた。

「動き出すタイミングが早いよ。刀を取ろうとしてちょっと慌てちゃってますね」

早ければ早いほど良いんじゃないか、と思っていた僕は戸惑った。

「ちょっと君の真似をしてみるね」

僕が刀を持って師範に構えた。正眼に構えて、振り上げて、進んで下ろす。振り上げたときに師範が僕の横に移動した。

「次に慌てないタイミング」

振り上げて、進んで下ろす。あっ、切っちゃう。そう思ったが、剣先は虚空を切った。師範は横にいた。

「わかった?」

違いが分かった。相手が「よし、このまま切れる」と確信を持つか持たないかのタイミングで避けるのがこの型の妙なのだ。

素手相手に対の先をすることができるのは、自分の体で相手の攻撃を逸らすことができるからだ。刀相手だとそうはいかないため、上手く避けることが必要なのだ。

もう一度、こちらから切らさせてもらう。まるで切った相手が煙になって自分の虚を突いてくるような不思議な感覚だ。

このまま切れるという確信が剣に意識を集中させるため、その他についての意識に虚が生まれるのだ。そこにつけ込む。「ああ、これが後の先か」。後の先について少し納得が進んだ。

「やらせてください」

師範が刀を持って振ってくる。

集中。集中集中集中。

濃密になった意識がその光景を長く捉えた。

「まるでセル画みたい」「景色は動かず、人物だけが動く」「打ち気が来た」「でも、まだ動かない」「こわー」「まだ」「こわー」「今」。引きつけて動いて相手の死角に付いた。

「さっきよりよくなりましたね」

でも、少しギリギリすぎた。ここで、ふっと「相手が煙になる」という意識から一つの情景が連想された。

以前、流派の中でも高い実力を持つ師範が指導をしているところだった。「相手に僕の影を打たせるんですよ」といって、相手の攻撃のことごとくを絶妙の拍子で避けて反撃していた。

その指導を真似したときには上手くいかなかったのだが、ここで繫がった。そのときの僕は対の先の拍子で動いていたから駄目だったのだ。

「もう一度お願いします」

相手の背後に集中。景色が止まって、その中を動く師範の姿が対比される。刀が持ち上がる。足が進む。下ろされる刀に自分の影、残像を残して切らせる。死角につけ込む。

影を残すイメージは上図のよう。危なげなく避けることができた。おそらく「影を残す」という意識が、自然とギリギリまで待って急に進む動きによくマッチしたのだと思う。タイミングを知ったことで師範の言葉を使えるようになった。

「景色の中を動く相手に影を残してそこを切らせる」

また、一つ自分の知が増えた。また、ここから後の先についての理解も進んだ。マイクロスリップを殺すのが後の先の真価なのだ。

マイクロスリップとは「動作の細かな修正」と思ってもらって相違ない。例えば、熱いお茶を飲もうと湯のみの真ん中を持つと思ったよりも熱く手を離してしまう。そして、無意識の内にそこまで熱くない湯のみの上部を持って持ち上げる。これが修正だ。修正は時間があればあるほど容易に変ずる。
上図で説明する。事象は空間と時間の中のどこかに位置する。時間が経てば経つほど、まるで円錐の底辺のように未来と過去に事象の可能性が広がる。現在だけは0秒(事象A)であるため可能性はないが、光は1秒に地球を7周半するし、月まで到達する。もっと時間があれば太陽にまで到達できる(事象B)が、たった1秒の間に太陽まで到達することはない。可能性の外だ(事象C)。時間が経つほど、行動の可能性が増える。逆にいえば、修正を可能になるには時間が必要だ。

日本刀に対して対の先のタイミングで動けばどうなるか。

相手が刀を振り上げたときにこちらは移動中だ。少し刀の方向を変えれば、振り上げたその位置エネルギーのために後は刀身を落とすだけで切り裂くことができるのだ。

つまり、動き出すタイミングが早ければ相手の修正を容易にしてしまう。一方で、後の先の拍子、ギリギリのタイミングならそんなことは起こらない。

前述した「このまま切れる」という意識の集中もあるが、ギリギリで避けることで修正をさせない、マイクロスリップを殺すことができる。さらにいえば、先の先は相手の初動、つまり0秒の時点を抑えることによるマイクロスリップ殺しなのではないか。

時間、拍子を見極めることで相手の可能性が生きるか死ぬかを自在にする。武術の、死活を根源にすることの本領がここにあるように思う。