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2014年10月17日金曜日

漫然とした日常を武術が食う

武術とは、科学であり歴史であり哲学であり思索であり生命であり全てである。
武術リポーター、よーりが語ります。

……now reporting……

武術は日常に溶け込むものだ。何か作業をしている間にもその作業に武術性を見出していつでも稽古の場にすることができる。

この実践を顕著なエピソードで見せたのが「ベスト・キッド」であった。この映画の主人公は師匠に空手を教わるが、師匠から言い渡された練習は窓ふきだった。まるで空手に繫がるとは思えない練習だが、そこには武術性が隠れていた。
この図から分かるように窓ふきに空手の受けの回転運動が隠れていたため、主人公は知らず知らずの内に受けの練習をしたことになる。

このエピソードのように、日常に隠遁した武術を探り当てて意識することによる稽古化が武術の上達には不可欠だ。他のスポーツと違って武術は大会といった品評会があるわけではないため入賞を目的としない。直接の目的といえば突然の理不尽から自分や自分の身内を守るくらいだ。

この突然性のために、武術は他のスポーツのように「ある日程に向けてのコンディション、技術の調整」を考えない。どこかにピークを持っていくことを考えながら、週五で一日四時間の猛練習といったしないのだ。

山谷があるベストではなくベター、コンスタントな実力を生涯発揮しつづけることが必要だ。猛練習による筋肉痛や怪我で動けないといった谷のときに襲われては肝心の実力もたまったものではない。おじいちゃんになっても続けられるような練習を工夫しなくてはならない。
ただ人を襲うために猛練習する人がいるのが問題で。そういった人に対抗できるような練習で、なおかつおじいちゃんでもできるものが必要である。

それが日常の稽古化だ。生涯武術を志せば誰しも不思議と日常の稽古化に流れつくことを、達人たちのエピソードは物語っている。そして、最大、二十四時間という六倍の質量を持てば、一日四時間を圧倒できる。流石の僕でもそこまでは徹底できていないが……。

まあ、床に就いたときにもイメージトレーニングを欠かさぬと柔道史上最強の木村政彦が語っていた。その実績をみるに不可能ではないのだろう。ちゃんと実践できる存在があるのだから。


さて、日常的に意識できる稽古、さらに欲をいえば高い効果を得られるものはなんだろうか。僕は丹田と歩法について特に意識して日常稽古をするのが良いと考える。こういってはなんだが、日常で出来る稽古はどうしても部分的になってしまう。

身体全体を動かす稽古は人目が気になってできないため、腕だけの動き、姿勢だけの動き、と身体の部分になりがちだ。部分練習と全体練習の違いと言っていい。
部分練習と全体練習

PCでタイピングするときに腕を脱力したり、肩を落とすように意識するのは部分練習だ。普段出来る稽古はそういった部分練習のため、いきなり相手という変数のある稽古、つまり全体練習に移るにはギャップがありすぎる。部分と全体の橋渡しとなる練習が必要だ。そして、それにうってつけなのが歩法というわけだ。

そもそも歩法は武術では肝にあたる。柳生新陰流の開祖から剣道に伝わった一眼二足三胆四力という言葉からもそれが分かる。洞察眼の次に足が重要と古の剣聖も言ったのだ。

その理由は数あるだろうが、僕なりの解釈だと歩法は距離と拍子、角度を直接に操るから重要なのだ。

相手にとって「今来られるとマズい」という拍子に距離を詰めて、相手を一方的に攻撃できる角度にポジショニングする最大の術が歩法なのである。

これが最大の理由だが、日常稽古で重要だと主張する理由とは違う。前回の記事でも書いたように、身体は歩法を伴うと自然に動くというのがその理由である。

言い換えれば、日常で歩法を稽古すれば身体が全体的に協調する。これが、部分練習と全体練習の間を繋ぐのだ。丹田の稽古も同じ理由だ。丹田という、上半身と下半身を繋ぐ要所を動かせるようになることで全身を協調させることができるようになる。


先日、僕は暗がりの中で学校から駅への帰路を辿っていた。バスがあるがなるべく使わないで済ますことにしている。徒歩なら40分間も歩法を意識しながら帰ることができるからだ、しかも日没しているので人目を気にしないで少々不可思議な歩き方もできる。

八卦掌のDVDを観た影響で円を描く歩法をしたかったが、爪先の怪我が完治していなかったため直線的な歩法を意識した。爪先を上げて踵で踏む。スルリスルリと進んだ。

そのとき、僕の進む通路に交差した道からサラリーマン風の男が現れた。僕にぶつかると思ったのか少し躊躇した瞬間を逃さずにスルリと横切った。タイミングが良かったのか危なげなく通り過ぎることができた。

そのとき、「そういえば相手の起こりや躊躇を捉えてスルリと歩く稽古は結構してるけど、タイミングだけを見計らう稽古をしてないな」と唐突に気付いた。

もしかすると、その前日にブルース・リーが学んだ詠春拳の孫弟子との話を思い出したのが功を奏したのかもしれない。もしくは、「合気道の達人、塩田剛三は反射神経を鍛えるため、金魚の尾の動きに合わせて左右に動く訓練をした」という話を思い出したのかもしれない。
塩田剛三 体さばき発見

それらに似ていた、つまり、それらに関連性が高く紐づいた記憶、「ブルース・リーはテレビに映る人の動きに反応して動くという訓練をしていた」という話が浮かんだ。

二人の達人たちはタイミングを合わせる訓練をしていたのかもしれない。そこに上達の秘密があるのやもしれぬ。

僕は自分の帰路に動くものがあるかを探した。すると、定期的に自分の横をすれ違う物体があることを発見した。車と通行人だ。僕が一二歩で踏み込むことのできる間合い、つまり一挙動で入れる距離に二者が触れた瞬間に縮地をして一歩を自然に引き延ばしてヌルリと歩む。

面白いのは、歩法で相手のタイミングを盗む際には必ず相手の起こり、初動を読む。つまり、歩法を使うときには一緒に洞察眼も使う。一眼二足、武術で必要なナンバーワンとツーが歩法で練習できるのだ。

また、日常に武術を発見したところで筆を置く。武術は日常の全てである。

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