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2014年11月11日火曜日

「開き」と「閉じ」。そして、爆発的な何か

「うーん、人間って脆すぎでしょ」

最近の稽古で生まれた所感である。こんなにも弱点があるのかと戦慄した。


関節は265箇所ある。ちょっと角度をかえて曲げればズレるし、関節の継ぎ目を打たれれば外れてしまう。

ツボは600以上。歩けばツボに当たる。めっちゃ痛いし、迷走神経を狂わせて行動不能にさせるものもある。

分筋法(筋を掴むことで痛めたり断裂させてしまう技法)を用いれば表面に見えるなら、どの筋肉や腱、靭帯だって攻められる。ちなみに筋肉の数は600以上である。

人間が弱点だらけで不安になる……。スーパーサイヤ人にでもならない限り、この弱点はそのままだ。こう考えると、関節もツボも筋肉もない液体人間のT-1000が弱点なくて無敵かもしれない。
あ、やっぱり嘘。液体窒素で凍らされるし、溶鉱炉でドロドロにされてた。それでも人間よりは弱点ないからいいか。万物は流転して形あるものは姿を変える。仕方あるまい。


……picking a weakness……

さて、諸行無常は置いておいて。

人間は弱点だらけである。

他流破りの記事(どうせ「小さな世界」しか見せられるものはない)を書いて、すぐに他流破りを教えてもらうことになり(といってもこれは偶然とはいえない。僕の流派は他流破りのコンセプトを内包しているから、学ぶうちに当然、系統立って教えてもらう機会に行き当たるはず)、そこでよく実感した。

僕の流派独自の返し技を具体的に口に出してしまうと秘伝のシステムに障ってしまう。だから、有名なものをあげることにする。
ブラジリアン柔術(グレーシー系)でいうと、タックルへの返しがある。この流派が得意とした技術が背中を見せてのタックルだ。前時代において、この流派が総合格闘技で最強を誇った。ボクシングも空手も柔道もキックボクシングも全て倒した。

なぜ、ブラジリアン柔術は並みいる流派のことごとくを試合で倒せたのだろうか。僕の「流派相対主義(構造主義)」の主張と違って、どの流派よりも優れていたといえるのか?

答えをいうと、ルールを有効活用したから勝てたのだ。異なる流派が戦ったといっても、別にルール無用の戦いだったわけではない。選手の安全を守らなければ興行として成り立たない(それにルール無用の戦いははっきり言って見苦しい)。

目潰し・金的・頭突きなど弱点への攻撃を禁止にしていたのだ。もちろん、脊柱への打撃も禁止。文字通り、ルールの守りを背負うことによって、安全に攻撃を進めることができたのだ。

そういったルールに最も適応したのがブラジリアン柔術であったため、戦いを有利に進めることができたのだ。つまり、最強ではなく最適の流派だった。

だが、試合でのタックルという戦術の有効性に恃んで実戦で使ってしまう選手だっていた。そういった人たちは喧嘩に負けることになった。

背中ががら空きであるため、脊髄に肘打ちを下ろされると後遺症が残るほどのダメージを受けたのだ。その他にも、一人にタックルしているうちにその仲間に囲まれて袋叩きにされてしまう者もいた。

流派の構造上の盲点・弱点とはこういうことである。換言すれば、徹底的に卑怯になることだ。相手が有利なルールを無視して自分の土俵に引き込むのだ。

ここで冒頭の話に繫がる。相手が人間である限り、その身体は千を越える弱点を秘めている。その弱点だけを観て、戦うのが「戦上手」の第一歩なのではないかと仮説を立てる。

格闘技でも武道でも武術でも、「強くなる」ための練習や稽古がある。だが、その練習や稽古は致命的なものを避ける。安全に着実に強くなろうというのに、練習で死んでしまうのが本末転倒であるからだ。したがって、どうしても急所といった弱点を保護しようとする共通見解を持たざるを得ない。保護は練習の中での幻想だということを忘れるのが堕落の始まりなのである。

皮肉なことに強くなろうとすると、どこかしらで弱くなることを求められるのだ。

そこから、なるべく決死の覚悟を持って稽古に望まないといけないな、と気付かされることとなった。練習は練習、実戦は実戦であるという認識を持ちたい。そして、その安全な練習で実戦で生き抜く術を磨くとするなら、せめて意識だけは実戦を保つのが筋というものだと思う。

人間の弱点から目を背けることなく、流派ごとに保護されて盲点となったところを効率的に叩く術を瞬時に引き出すことが僕の目指すところであると再定義した。

……opening……

「先に開展を求め、のちに緊湊に到る」

中国武術に伝わる要訣である。最初は伸びやかに大きく、そのあとに小さくまとめるという意味だ。(湊とは「みなと」。海に立った、多くの船が白波を残して港に戻ってくる。この様子からまとめるという意味になったと思われる)

僕の武術の視点でいうなら、最初に身体をできうる限り大きくバラバラに動かせるようにして、あとに小さく協調させることに当たる。

こういうと小さくできる人=玄人だと思われるが、玄人ぶりたいのか開展もままならないのに最初から小さくしたせいで全く威力を持たないへっぽこ武道オタクを多くみてきた。だからなのか、僕は開展を限界まで求めようとする傾向にある。

「若いうちにもっと明勁を求めればよかった」

とある老境の達人がこう言うのを聞いたこともある。明勁とは、傍目から見てわかるくらい大きな動きで紡ぐ力のことだ。

達人はその逆の暗勁、つまり外見からまったく分からないほど微細な動作でいきなり大きな力を出せることで有名な方だった。僕は凄い威力だと思っていたのだが、彼にとってはまだ十分ではなかったらしい。その言葉も僕が開展を求める大きな要因である。

身体をバラバラにするには、なるべく大きく伸びやかに解放して動かなければならない。そのためのメソッドは僕の流派にあるが、基本のものをそのまま使っただけではまだ足りない。宗家が膨大な体系の中からエッセンスだけを抜き出したと語られたからだ。基本を応用することが上達の鍵である。
https://www.youtube.com/watch?v=IWbyXMQ9ZPk#t=17
少し変化させて僕は劈掛掌の動きをこれまで取り入れてきた。

全身の力を抜きさり、腰を支点にして上体を上下左右に振り両腕を風車のように振り回す」

劈掛掌は僕が知りうる限り、最も大きな動きをする流派である。その中でも、胸を開く・閉じる動作を最近は重視してきた。それなりに功がなったのか、宗家や師範からお褒めの言葉をいただいた。

「もっと、開きたい」

そう思って自分の本棚で昔の本を探っていたところ、再解釈があった。
これは、前衛的な空手である「新体道」の稽古の一つ、連続反り飛びである。

以前にこの新体道の本を読んだときは、「鍛錬が前衛的、抽象的すぎて意味がまったくわからない」という感想を持ったことを覚えている。そのときから僕も少しは成長したのだろうか。なんとなく用法や効果が分かるようになってきた。

新体道の鍛錬は内に籠もらずに外に大きく解放することを重視するのだろう。この連続反り飛びが良い例だ。これほど「開く」例は正直いって、他の流派には見当たらない。劈掛掌でさえもだ。これからの開展は新体道を取り入れて鍛錬しようと思う。「あらん限り開く」意識を持つ。閉じるときもリミッターを外すくらいの勢いで閉じる。

しかし、思いっきり飛び跳ねるのはいささか宗教チックだなあ……。と思ったが、ハタと気付いた。新体道は神域に達するための「道」というコンセプトだった。ならば、その行が宗教になるのは仕方ない。

古来から、呼と吸、解放と呼び寄せ、外界と内界は魔術や宗教で重要とされてきた。呼吸は、外と自分の中を繋げる役目を持ち、神を内側に取り込む。そのイメージは洋の東西を問わない普遍的なものだ。「開き」と「閉じ」を思い切りやるなら、そのイメージは付いて回るのだ。仕方ない。

武術は魔術や宗教と構造が似ているせいか、リンクしやすいのだ。八卦掌の走圏だって、元はスーフィズムだもの。ぐるぐる回ってトランス状態、つまり神が入ったと見なされる状態が武術的なパフォーマンスを最大に発揮することを誰かが見つけて取り入れたのだろう。

歩きや呼吸は無意識に繫がっているからなあ……。盆踊りだって、くるくる回ることでトランス状態になって神を降ろすのが目的だったりする。伝統のお祭りの元を辿れば、必ず宗教にたどり着くのはそういうわけである。

……now exploding……

最後に「爆発」の意識について語ることにする。その意識を持つきっかけはかずくんとの語りにあった。

「最近、脱力の意識が大事だなと思ってるんですよ。ロックダンスでヒットという技で意識するようになったんです」

そう言うやいなや、彼の腕の三頭筋が弾けるように膨らんだ。ポップコーンを想起するほどの弾け具合だ。

「力を入れることは出来るんですが、力を抜く意識も大事だと分かったんですよね。そっちの方が筋肉の弾きにメリハリが効くことで大きく見えるじゃないですか」

そこで、僕の脳裏に爆発のイメージが浮かんだ。例えば腕の力こぶを作るときに、無意識のうちに力こぶの少し上に意識を集中するはずだし、そこに集中した方が力こぶを作りやすい。それが、「力を入れている」ということだ。逆に力を抜くときには、力を抜くところを意識せずに遠くに意識を飛ばすといい。僕はいつもそうしている。

なら、力みからの急激な脱力への切り替えはどうするのか。それに当たる、意識の集中→拡散を成立させるイメージが「爆発」だったのだ。

このことをかずくんに伝えたが、僕の中で整理された「爆発」のイメージはある仮説の元に組み込まれた。その仮説とは、「脱力」と「伸筋」の橋渡しに爆発を使えばいいのではないかというものである。

「脱力」とはいつも僕が行っている、「全身をバラバラ」の元となる技法である。一方で、「伸筋」とは身体の伸筋を繋げて一本の槍として使う技法である。基本的に、僕の流派では脱力を行い、伸筋を嫌う傾向にある。まずは脱力を求められるからだ。その後なら伸筋を簡単に使えるのだが、逆は難しい。それは、前回の宮本武蔵の引用の理由からだ。

たまに伸筋も使うが、基本的に圧倒的に脱力の方が使い勝手がいい。それでも、何かしらの状況で伸筋が脱力より優位になることだって考えられる(今のところ思いつかないが)。

僕の悩みとして、脱力状態から伸筋に移行するのは簡単なのにその逆を瞬時に行えないというものがあった。しかし、この「爆発」はその橋渡しをしてくれるイメージなのではないかとかずくんとの対話で気づいたのである。

全身の伸筋を繋いで一本の槍にするのだが、そのとき爆発のイメージを使って一瞬だけ伸筋を繋げる。そして、そのあとは振り戻しによって瞬時に脱力状態に戻ることができるという仮説だ。

この仮説を使ったところ、脱力状態から突然、伸筋を一瞬だけ使うことができるようになった。後は、伸筋が有効な状態を探すだけである。

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