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2014年11月5日水曜日

古(ふるき)を稽(かんが)える

伝統と現在のアダプタです。よーりです。

……now adapting……

今日はちょっとした気づきから。
前の記事(どこに球を置くか。虚の球を磨く)で言及した「這い」についての気づきである。

肘の高さが肩と同じになるくらいにまで両手をあげて腰を落とす。そして、顔を前に出してジグザグに足を進める。そのとき、地面と相対化して見て、腕が左右に動かないようにするのが這いの歩法である。パントマイムのように。

僕の課題として、「肘が外に開いてしまうのを直す」というものがあった。肘を外に開いていた方が楽に大きくジグザグに進めるのだ。逆に、肘を閉じてしまうと横に進むのが窮屈で仕方ない。威力のある突きを放ってくる相手と対峙するときは、つい大きく避けようと思って肘を開いてしまう。むしろ、どうして肘を閉じてしまえと流派で指導されるのかが疑問であった。納得がなければやすやすと直すことができない。

それが、先日の稽古での気づきによって解かれたのだ。

きっかけは、24式太極拳の始めの型である「起勢」についての教えであった。
24式太極拳
動画の一番最初の、足を開いて腕を肩まで上げて、腰と一緒に落とす、というシンプルな動作のことだ。こんな抽象的な動作がそのまま武術になるのが太極拳の深みだ。

腕を上げた状態のときに相手の突きが自分の腹に向かってくる。そのときに腕を落とすと、相手の腕に接触して突きが下に逸れる結果となる。以前から知ってはいたため、楽々できるように思われた。

「腕に力が入ってるね」

一応、突きも逸れて結果的に良い出来だと思ったが、師範にそう言われて気付いた。腕に力が入っていると、ガツっとぶつかるような手応えになってしまっていけない。上手くいくと、フワッと柔らかく重さが乗る感触があるのだが、このときはガツっとした手応えであった。

何を変えれば上手くいくのか分からないまま、次の指導に入った。這いの指導である。

這いのときの腕も太極拳の起勢と同じ意味を持っている、というのが指導の趣旨であったようだ。前に出したこちらの顔 を狙った突きを、上げた腕を落とすことによって逸らすのだ。

このときも、僕の肘は外に開いたままだった。何度か、逸らしをするうちに師範に指摘された。

「肘が外にあるから、真下に落とすときに一回閉じてから落とすことになる。ワンステップのロスがあるよ」

言われてみればその通りだ。さらに言うと、肘を外に開いたまま腕を落とすと、腕の軌道までも外に開いてしまう。実際に肘を閉じてやってみると、ロスなくダイレクトに重さを相手に伝えられた。

だが、「肘を閉じる」という意識の入力に何か違和感があった。何か身体にぎこちないものを感じた。そこで、フッと太極拳の姿勢の要件が意識に浮かんだ。

「沈肩墜肘(ちんけんついちゅう)」

両肩に下に沈めて、肘が常に下を向くように、という意味である。試しにこの意識で這いの構えをすると、左右に窮屈なのは変わらないがずっと自然になった。そのまま、腕を落とすと脱力したまま柔かく相手の突きを逸らすことができた。

きっと、起勢でもこの意識をすればよかったに違いない。這いは大気拳であるが、起勢は太極拳の型なのだから姿勢の意識にマッチしないはずがない。

技が技を考えたわけではなく、技を考案したのは古の人である。その人が何を伝えようとしたのかを、肘を開かないといった技の要求から考えるのが稽古なのだと改めて実感した。

さらにいうと、肘が落ちた状態で這いをしようとすると左右に窮屈であるが、ここからも古の人が伝えたかった戦術が見えてくるように思える。

窮屈でも一応、左右に半歩動くことができる。そして、それだけ移動できれば相手の攻撃を避けることが可能なのだ。
相手が自分の身体のど真ん中、例えば鳩尾を突いてきたとしよう。そのときに、肩幅の半分だけでも横に動けばぎりぎり躱すことができる。相手が自分の身体の左右どちらかを突いたきたならもっと余裕を持って躱せるだろう。

つまり、左右に窮屈であるということは、身体半分の幅という最小限 の動きで躱せ、という古の人からの伝令なのである。

さらにそこから色々な戦術が想起される。最小限の動きで躱すといっても、相手がどこを打ってくるか分からない状態で待つというのは大変、不安な心持ちになる。だから、逆の発想として「こちらから隙を作ることで、相手の攻撃がそこを打つよう特定させる。その上で躱す」というものが生まれる。

どこに球を置くか。虚の球を磨く(前の記事でも言ってた)

万全の構えよりも、どこかに隙を見せることで相手を誘導することができるのだ。這いでいうと、顔を前に出すということがこれに当たる。遠くに見える鳩尾や金的を打つより、近くにある顔に手を出してしまうという相手の心理を利用するのだ。


もう一つの最近の気づきはこれに近いものがある。「このまま当てることができる!という相手の意識の集中を利用する」というものだ。
http://shintaihan.blogspot.jp/2014/10/blog-post_30.html
これに近いことは以前にも書いていたが、もっと洗練させることができた。

簡単にいうと、後の先での工夫である。相手の攻撃を読んでから一方に避ける仕草をしてから逆に避けるともっと相手のマイクロスリップを殺すことができると気付いたのだ。

それは、前回の記事でも書いた非常に強い講師の方の動きを見ていて分かったことだ。その方と組んで打ち込むとなにがなんだか分からないうちに倒されるので、他の人と組んでいるところを見ていた。すると、自分で組んでいるときには分からないことが分かった。
https://www.youtube.com/watch?v=hZruJFZ6Kqo

この動画の25秒からのところに近い。相手が打ち込みやすい方向にわざと動いてから逆の方向に回り込んでいたのだ。これも後の先の一つの形なのだろう。自分と組んだときも、僕が打とうとするのと同時に動いていたことは分かっていたが、まさかそうしていたとは……。

例えば、人間の腕の構造的に右で殴りかかろうとしたときは、ストレートの訓練でもしない限りは一度テイクバックして自分から見て右に膨らんでから斜め左に殴り抜けるという軌道になる。だから、その方は相手が右で殴ろうとした瞬間にそれを読んでまず、自分から見て右に動いてから左に躱していた。相手が殴りやすい右にまず動くことによって「このまま当たる!」という意識を強くしていたのだろう。

そういった気づきから仮説が直感的に閃いた。

「自分の影を濃くしてそこを相手に切らせる」

この仮説のまま動いたところ、さらに相手を困惑させることができたように感じる。この仮説の意識で動くと、あまり意識しなくとも自分が顔なりを出した隙に相手が打ち込んでくるのを読んで、相手の打ちやすい方向にまず動いてから逆に避けることができるようになった。影を濃くするという意識が、打ちやすい方向にいったん動くことで相手にとっての意識の集中を強くするという行動にマッチしたように思う。

上手い人は避けた方向に突きがホーミングしてくるのだが、打ちやすい方向にホーミングが使われることでマイクロスリップによる修正が無駄に使われるのだと考える。

伝統と現代のアダプタになって、さらに古の人の考えを進めたところで筆を置くことにする。

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