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2015年2月7日土曜日

充実した脱力感

通常脱力運転ようりです。

前回から引き続き、脱力を深めています。

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自分の肉体を「搗く」ことがこれほど武術の可能性を広げてくれるのか。

ここ一ヶ月の衝撃は「搗く」ことの可能性を感じた月日だった。

「搗く」ことに最も近いのは、システマの打撃訓練(5:20〜)だ。
この動画では、二人一組でお互いの打撃を自分の肉体で吸収している。

しかし、二人でなく一人でもこの訓練は成立する。自分で自分を搗くのだ。
自分の肉体のあらゆる箇所を搗くことがようりの中でホットである。

先日、身体班の山崎に「搗き」を教えたとき、ある閃きがあった。
「山崎にとって最もリラックスが重要な箇所はどこか」

山崎曰く、Lockダンスで重要なポイントは、「筋肉を大きく見せること」だ。
そのためには、筋肉の弛緩と緊張の振れ幅を大きくすることが大事だという。普段は筋肉を弛緩させてカットをなくす。その状態から一瞬の緊張を起こすことで筋肉の隆起が光るのだ。

そんな山崎がリラックスをしたい箇所はどこか?

僕自身が自分を搗くポイントは、体幹を重点的に、だった。格闘の際に相手が打撃してくる箇所は体幹から頭であるからだ。

しかし、Lockダンスは違う。体幹よりも腕の筋肉を見せることが多い。だから、山崎に「搗き」を施すなら、腕を重点的にした方がいい。これが僕の結論であった。

腕を伸ばしてもらい、上から下にかけて「搗き」落とす。

そうして、彼に「搗き」を施してから自分の肉体の末端に試してみる。肩、二の腕、肘、手首、太腿、etc…。
効果は劇的であった。

特に大きな発見があったのは、腕だ。今までとは段違いの柔らかさを獲得するに至った。
表現するならば、「搗きから搗くへ」といったところだろうか。

肘を上から下へ「搗く」。すると、その腕は鞭的な運動をして垂れ下がる。それは、以前に師範が見せてくれた下段払いを彷彿とさせた。
「筋肉で動かすよりも、脱力して落とした方が明らかにスピードが増している」と驚いた。

前回でも記述した「二重振り子」の体現だった。関節が一つであれば一つの振り子、二つであれば二つの振り子。腕は肩・肘で二重振り子で出来ている。手首も加えれば三重だ。
二重振り子以上であれば、関節部分の筋肉を収縮させるよりも関節を脱力して動かした方が、遥かに高い速度が出力される。

「搗かれる」ことで起こる腕の鞭的運動で搗くという応用がここで出来た。

突きでも蹴りでも鞭的運動を実現させる。「搗き」はその動きを再現することにも有用だったのだ。
そうやって、腕の鞭的運動をするために、自分の意識のinputも変化した。

今までは、「前腕を重く感じる」というinputだったのだが、鞭になるには「二の腕を重く感じる」ということが大事なのだ。そうすることで肘がよく曲がり、鞭のような抱え込みが発生する。

後は、落下させるだけの運動の方向を体幹のうねりや運足によって変化させるだけで「脱力した重い搗き」を使えるようになる。

2015年1月4日日曜日

身体作りは餅作りのごとく/大きな脳に同期する

年が明けた。餅が美味しい季節。ところで餅はどうやって作るのか。

一般的に、①蒸す②捏ねる③搗く の三工程となっている。

「餅つき」の単語が有名であるためか②の発想が抜けている人が見受けられるが、捏ねないでいきなり搗くことはできない。臼に広げた餅米を杵頭でもにもに潰さずして、ぺったんぺったん搗くカタルシスは得られない。

身体も同じである。
最近の僕のホットトピックは身体を柔らかくすることだ。ここでいう「柔らかさ」とはストレッチで得られる「関節の稼動域の拡大」とは意を異にする。僕は餅のように、霜降り牛のように肉質をモチモチ/プルプルにすることを目的としている。

まず自分の身体を柔らかくしたいと思い込んだなら、徹底して脱力を心がけなければならない。いかなるときも僧帽筋を力まず、肩が落ちてなで肩にならねばならない。あと100gでも力を抜いたなら膝が抜けて床に崩れ落ちてしまうくらい限界の脱力を目指さねばならない。

お餅でいうなら①蒸す の段階である。甘味料・合成着色料・力み不使用で身体を運営できるようにならなければ、捏ねようが搗こうが身体は固さをリバウンドしてしまうであろう。

そのためには骨の構造に則った身体の積み上げをしなければいけない。それが立ち方である。太極拳には站椿という立ち方があり、これを体現できれば滅多なことがない限り崩れることはない。正しい立ち方をすれば、三途の川の石のように余計な支えなく立つことができる。つまり、姿勢を保持する筋肉の必要量は最低限で済む。

①の工程に満足できれば②捏ねる に移る。
肉や筋を揉み込むことになる。そのためには別に普通のマッサージを使ってもいいけれど、僕は武医同術に拘りたいので分筋法を用いる。武術中では相手の筋を裁つ技術なのだが、医術に使えば筋に溜まった瘀血淤血(おけつ)をひり出し、骨に癒着した筋を剥がすことができる。一日に二回も施術すれば肉質が筋肉なのか脂肪なのか判然できなくほどモチモチ/プルプルに近づいていく。つまり、ハードの面から脱力に近づいていく。

世界に指圧を広めた実績を持つ浪越徳二郎はモハメド・アリに指圧を施した際、「マリリンモンローよりも肉が柔らかい」と驚きの証言を残している。しなやかに脱力した強打を放つ肉体とは得てしてそういうものなのではないか。

実際、今まで強ばりがちだった肘周りが柔らかになったことで打撃力が向上した実感がある。スポーツ科学で推奨される「二重振り子」では、筋肉の収縮スピードより、関節が自由に振り子的に動いたときの速さが上回るのだ。ダルビッシュの投球だって力づくではなく振り子の脱力を活かすことであのスピードに達しているのだ。

②では打撃力も重要だが、その他の効用も大きい。
一つは免疫だ。淤血が滞らず流れるようになることで血行が巡り代謝が促進される。ひいては体温が上がって免疫作用が増大する。武術は「生き延びる」術であるため病気をも克服できる術がある。これもその一環であろう。

そして、最も大事であるのは衝撃の分散による防御の向上である。
石は衝撃に脆いがゴムは砕けない。太極拳の達人の身体を殴るとまるで生ゴムのように衝撃を吸収されてしまう手応えだ。硬い一部分で打撃を受け止めれば衝撃がそこに集中してしまうが、柔らかければ全身のフレームで衝撃を拡散することができるのだ。
しかし、①と②によって身体がハード的に柔かくなったからといって対人でそれが使えるかは別の話である。相手が拳を振りかぶったときに身体が緊張してしまってせっかく養った柔らかさが台無しになってしまうことはよくある。だから③搗く が必要なのだ。

「攻撃される」という恐怖を自分の中で大きくしすぎないことが肝心である。そのために攻撃を「ありのまま」味わうことで慣れる。そのために最近は搗いてもらうことが多い。最初は弱く。次第に強く。

なるべく目は瞑る。相手のパンチが皮膚に触れた瞬間に力の大きさや方向を身体が察知して適度な柔軟さを設定してくれる。弱いパンチであれば接触箇所が少し窪む程度。非常に強いパンチであれば身体全体がうねる。

そうやって視覚のない状態でずっとパンチを受けていると、ときおり自分が餅になった感じを覚える。どんどんと液状に柔らかくなっていく。そしてふいに不思議な体験に入る。

「相手が搗くから自分は受けるのか、自分が受けるから相手が搗いてくるのか」
二つの境界が曖昧になってついには交わる。これは搗かれるときだけではない。

この訓練を行うと、次第に相手の攻撃に身体が自然と反応するようになるのだ。相手が攻撃のモーションに入る寸前に相手が攻撃してくる箇所に熱を感じるのだ。その部分を熱の強さに応じて柔らかくするとほとんどの場合、無力化できることに気がついた。

相手が攻撃するからそこに熱が生じるのか、熱を感じたところに相手が攻撃するのか。

たびたび相手の行動を操れるようになった。それは以前に書いたことに共通する。
万全の構えよりも、どこかに隙を見せることで相手を誘導することができるのだ。這いでいうと、顔を前に出すということがこれに当たる。遠くに見える鳩尾や金的を打つより、近くにある顔に手を出してしまうという相手の心理を利用するのだ」

このことを前は意識的に用いていたが、最近は「自分の身体を開いて熱を感じたところに向けて閉じる」という系で使えるようになった。自分がフッと開いたところにドンピシャで相手が入ってくるのだ。それも相手が来るから開いたのか(略)のような境地である。完全に系に入っている。


系といえば、最近は相手との系に自在に入れるようになってきた。禅的な悟りを体感したからだろうか。
僕の悟りは「携帯電話ネットワーク脳」に近いものがある。

まず「私」という意識は確固として存在するものではないということが前提だ。意識とはシナプス間でやりとりされる化学反応の連鎖とその構成である。あるシナプス一つを取り上げて「これが私」と自分の根拠を求めることはできない。あくまで自我とは化学反応の連続性なのだ。酸素の供給が止まれば「私」も停止する。そのまま5分も経てば「私」は簡単に破損して戻ることはない。

これを携帯電話に例える。例えば、人類みんなが携帯電話を持つとしよう。70台の携帯だ。そしてほとんど休むことなく、知り合いの友達同士で電話をかけ合うとする。友達同士といっても交友関係を舐めてはいけない。六次の隔たりの仮説からすれば、友達を六人経由することで世界中の誰とでも繫がることができるからだ。脳の神経細胞は千数百億個あるとはいえ、携帯=シナプスと置き換えれば、これで小さな脳ができたことになる。信号の総体が我々の意識というわけだ。

しかし、このネットワークに意識があると誰が認識できるのだろうか? 我々の脳に意識があると確認できるのは意識を出力する手足があるからである。もの言わぬ意識は意識だと認知されない。

我々の意識というものが「不思議」なものだと理解いただけたであろうか。シナプス一つに意識はない。信号の総体的構成でやっと意識となる。まるで言葉のようだ。モノは存在するのに、そのモノ同士を繋ぐ言葉の何と不確かで曖昧なことか。

禅を組んでいるときに、僕はこの悟りを体感した。そして、稽古に臨むときに一つの仮説を試した。
「携帯電話でさえ意識になるのなら、自分の周囲全体も化学反応だ。脳になる」

自分と相手、周囲を一つの総体だと感じて、それによって構成される「大きな脳」の意志に身を委ねると、自分が何をすべきかが雰囲気でわかり、それを満たすために身体が勝手に動くようになってきた。相手が攻撃するから自分が動くのではない。ただ場の調和に則して身体が柔軟に動く。

系とは「大きな脳」なのではないか。そして内部観測とは「大きな脳」の中からその意識を記述することに他ならないのではないか。諏訪研で研究することは深い。